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逃亡



 天色の空に映える辛子色の幟旗が、風にはためき音をたてる。
 中心都の大きな広場の奥に帝の血族が座す御前台が三つ並んでいた。豊作感謝の祭礼が始まって数刻、始めに執り行われる儀がほぼ済み御前台の幕が取り払われるために周りを囲んでいた数人の衛兵が下がった。
 鈍色の塊が、とんできたように見えたという。
 鼠色の服をきた二人の男が御前台目掛けて一直線に走ってきたのだ。誰が止める間もなく、男二人は帝ヨウカと、その弟ネイサの座す御前台へと体当たりしたように見えた。人々がざわめきはじめる前に衛兵数十人が男達を拘束しに走り、それぞれの侍従が御前台へ駆け寄る。
「我々は! 戦をもって他国を蹂躙することを義戦と呼ぶ帝に、意を唱える!」
 男二人は言葉を叫び揚げると、衛兵の手に逆らわずに拘束された。二人の手から石敷きの地面にからん、と音をたてて短刀が落ちる。落ちた短刀は紅色に汚れており、侍従が中へくぐった後に揺れる隠し幕にも紅色がつき、小さな穴がどす黒く汚れて見えた。
「アァ」
「ヨウカ様ぁあ」
「帝が!」
「男どもを殺せえぇ」
 誰の口から出た声かはわからない。ただ、悲愴な顔をして泣きはじめる女や、事を起こした男二人に怒号を浴びせる男達、安否を思って不安げな顔をする者、何が起きているのかわからず大人たちを見上げる子供と、広場は途端に混乱した。
 隠し幕から侍従達が出てくる前に二人の男は引っ立てられいく。中々出てこない侍従達とそれを取り囲む衛兵達に広場で見守る者の声はさらに大きくなる。ヨウカ帝と、帝弟子の命にもしや大事があったのではと思う者が多くいたのである。
 ただ一つ女兵に囲まれている御前台だけが騒ぎを静かに見守っていたが、その幕からそっと白い手が覗く。近くの女兵が後ろに気づくと慌てて止めた。
「姫様いけません! まだ広場に残党がいるかもしれぬ今、姫様の御身に関わります。どうかご辛抱を」
「何が起きたのです」
「……帝と、帝弟子様が」
 女兵の顔は白んでいた。自らもわからぬ帝達の安否なのだ。
「私めの口から、確かなことは申し上げられません。姫様、お許しを」
「シンヤ殿は?」
「いまは、ヨウカ様のもとに」
「ではシュウ殿もそうね。サラハ殿をお呼びして頂戴。お手すきでない様でしたらユン殿でも構いません」
「畏まりました」
 女兵は近くにいたもう一人の兵と場を変わるとすぐに駆け出した。御前台の前はもう数十の兵に取り囲まれ広場を囲む民たちからは天に伸びる飾りしか見えない。女兵は兵士の波を縫って官たちの居並ぶ中からサラハとユンを探す。
 武官は軒並み刀を帯びていたため文官の周りと御前台を衛兵と共に囲みはじめたらしく、一所から崩れていた。見回すも武官であるユンの顔は見つからず、女兵は奥へと踏み込み文官達を囲む武官を掻き分けてやっと、目的の姿が歩き出す後ろ姿を見つけ名を呼んだ。
「サラハ殿! サラハ殿! セン姫様がお呼びです!」
 長い髪を緩く結い上げたサラハが振り向いて、女兵が繰り返すとサラハは答えた。
「帝の元へ行く所だ。共に来てくれ」
「はっ、畏まりました」
 御前台の元へ着いたサラハは、帝の隠し幕に入っていく。待つ女兵はぽっかりと短刀であけられた穴を見て、ぐっと唇を噛み拳を握った。今でさえ一大事だが、一つ間違えば自らの守護するセン姫も凶禍に見舞われていたかもしれないのだ。そして、国の要である帝が亡くなったかもしれぬ恐ろしさに身が震える。
「姫様のもとへ」
 二つの御前台を回り、出てきたサラハは女兵を促した。女兵が姫のいる御前台へと入り、中継ぎをしてサラハと共に御前台の中へ入る。セン姫はサラハに問うた。
「二人は無事なのですか」
 サラハは険しい顔でゆっくりと首を振った。
「ヨウカ帝と、ネイサ様は、御隠れに……なりました」
 浄玻璃玉のようなセンの瞳が潤み、柳眉が歪む。口元を着物の裾を持ち上げて隠し、言葉も出ない様子でサラハをじっと見る。
「そう……。凶手は?」
「二人です。既に捕らえて牢に」
 センは目を瞑り黙した。広場に集まる民の声が、隠し幕の内まで届いてくる。これでは休まらぬだろうと、奥後殿に戻るように女兵が伺いをたてようとしたところで、センが漸く目を開く。それから、ぐっと堪えた声でこう言った。
「私が収めましょう」
「この様な事態のただ中にセン姫様がお出でになられては大変危のう御座いますよ?」
 サラハが述べた諫言にセンは淀みなく答える。
「このまま誰も出ぬのでは民の心は晴れませんし、凶手に屈するようではありませんか。どうぞ、許しをいただけるなら、収めますから出て行く私を守って下さい」
 女兵は口を出せるならばすぐにでもセン姫を止めたかった。話しを聞くサラハに是が非でも止めくれと心中で願うほどである。
「セン姫様。一度シンヤ殿と話して参りますからお待ち下さいませ」
「えぇ。もし否と言うようでしたらこちらにお呼びいただけるかしら」
 センはにこりと口元を結ぶ。瞳は湿っているものの、先ほどまで泣き出すのではないかと思われた表情は影を潜めている。サラハが出て行くと、残った女兵は恐る恐る口を開いた。
「恐れながら」
「どうしたの?」
「何故、お出になられるのですか」
「きっと直にシンヤ殿が来るわ。お待ちなさい」
「失礼をいたしました」
 すぐにサラハと共に戻ったシンヤが入るなり厳しい口調で声をあげる。
「姫様、今お出でになるなどなりません」
「今この場を収める者が居ないままでは、ヨルガは凶手の首謀者に揺り動かされることになるわ。私一人すら守れないと言うのですか?」
 女兵は身が竦む思いであった。セン姫は決して声を荒げてはいないが、凛とした声にはどこか気圧されるように感じてしまう強さがあった。サラハとシンヤも同様に、これには思うところがあるのかすぐに反論は出来ないでいる。
 シンヤは細い目尻を下げると、答えた。
「……わかりました。では、ヨウカ様とネイサ様の安否は秘めて頂きたく存じます。御前台はこれから禁裏まで運ばれます。仰せがお済みになられましたらすぐに奥後殿にお戻り下さいませ」
「ええ。勝手を通して頂いてありがとう」
 セン姫はそう言って微笑んだが、悲しみを押し殺しているのだろう表情が何とも痛ましく思えてならない。
 サラハによってこの事情が兵士長と後殿兵である女兵達に伝えられ、兵たちが囲む道が演壇に向けて作られた。この間に二つの御前台は禁裏へと運ばれていく。一つ残った御前台に、民達の視線が集まった。
 隠し幕が両端から退けられ、中から姫の姿が現れると広場は再びどよめきに包まれた。


     ■


「ネイサ様、顔をお隠し下さいませ。これより駆けまする故、お気をつけを」
 神妙な表情で言い放ったタッサンという男は、私が馬の轡を握るが早いか両足を馬の胴に打ち付けた。
 背後では群衆の密やかな話し声と、規則的に叩かれる鼓の音が広場の方から伝わって来る。豊作を祝う祭礼が行われている中心都の外れからネイサは城下へ向かってどんどんと遠ざかっていた。細々とした道は、馬の背に乗っていると驚くほどの速さで前から後ろへと過ぎ去り、油断すれば馬から振り落とされてしまいそうになる。ネイサの後ろから轡を握り馬を操るタッサンは、二人が跨った馬をまるで自らの手足と同じように器用に駆っている。狭い裏道を小回りしつつも速度を落とさずに走らせている所から見ても、馬乗りの才に長けているのだろうと思った。
 広く大きい廟堂の周囲に広がる主都の中心地を抜け、人の出払った店や民家を過ぎた先に城下へと続く石門が見えてきた。向かい風にさらわれたままになっている上掛けの被りを、ネイサは慌てて片手で引っ張り下ろす。思い切り引っ張ったせいで、ほとんど前が見えなくなってしまった。
 廟堂のある中心都と城下街を結ぶ門は解き放たれており見張りの兵四人が近くに立っている。そのうち二人が門の向こう側で馬を連れた誰かと話しているようだった。
「通してくれ」
 タッサンは馬を減却してとめると、門近くに立つ兵士によく通る声をかけた。
「こんな時間にとは珍しい。まだ祭りははじまって直ぐではないか?」
「ヨルガには薬の買い付けにきたのだが、祭りを楽しみにしていた子供が熱を出してしまってな。故郷では妻も臥せっているのだ」
「そりゃあ、なんとも具合が悪いことだな」
 気の毒そうに兵士は答えると外側で誰かと話している二人の兵士に合図を送った。
「行っていいぞ」
 ゆったりと馬が前進すると、被り布の隙間から覗く馬のたてがみと砂利が敷かれた地面に影が落ちる。ネイサとタッサンを乗せた馬は、廟堂と中心都を取り巻くように囲う大きく分厚い石壁をくぐりぬけた。
 ネイサが少し顔を上げると被り布の隙間に、先ほどから門の外で兵士と話していた者の姿が見える。旅姿をした女のようだが背には弓と矢筒があった。馬が通り過ぎてすぐに顔は見えなくなったがネイサはあの女と目があってしまったように思って、途端に竦んでしまった。
 帝子たる身分にある自分が、祭礼に紛れてヨルガ国から抜け出そうとしていることに気づかれてしまったのではないかと恐ろしくなったのだ。あの遠くを見透かすような両の瞳は強くネイサの頭の内に刻み込まれてしまった。
 どうして、この男に付いて来てしまったのだろう。もし、こうして国を抜け出したことが皆に知れたらどうなってしまうのだろう。ヨウカ兄上には、何もお伝えしていないのだ。怒られるだけで済めばそれでいいのだが、私は国に戻れるのだろうか。
 手綱を掴む握り拳が白く色を失くしていく。ネイサの心中などまるで知らぬだろうタッサンは馬を駆る速度を落とさずに先へ先へと城下街の道を進んだ。
 中心都と比べれば華やかさは劣るものの、城下街にもしばらくは中心都と同じように店が立ち並んでいる。背の高い屋舎が疎らになっていくと中心都の祭礼を見に行っていないのだろう人がぽつぽつと見かけられるようになった。
 目に眩しく思って視線をそちらへやると、祭礼を抜け出す直前に御前台から見た陽がずっと地上へ近づいている。四半時ちょっとは駆けていたようだ。
 城下街を抜けると、道は急に閑散としてくる。鼻から吸い込む風の中に落葉と土が混ざりゆく匂いがして、山裾に近付くごとにぐっと道が狭まった。馬の鼻息と土を駆ける音が時折吹く風に消される。陽はとっくに落ちて暗くなり道も少し先までしか見えないが、街道を逸れて山の方へ入ったのだろうことは薄闇の中に浮かびあがる枝葉からわかった。
 もう、辺りは木々だけで聞き耳をたてる者もいないだろう。ネイサはやっと口を開いた。
「これから、どこへ向かうのだ」
 誰にも何も知らされずにここまで来たのだ。ネイサの声にタッサンは手綱を引き馬の歩幅を詰めてから、答えた。
「少し先に使われていない草庵があります。陽が開けるまではそこで。もう少しご辛抱を」
 わかりきっていたことだが今日は廟堂に帰れないのかもしれない。タッサンが一体どうして自分を連れて国を出ようとしているのか、ネイサには一つだけ心当たりがあった。祭礼がはじまる直前、ヨウカ兄上の側仕えで政文官のシンヤから「御前台が一度隠された時にそこにいる側女と入れ替わりなさい。後はタッサンという男に着いて国を出るのです」と言われたのだ。いつもなら祭礼の前にお話しをすることもあるヨウカ兄上の顔すら見ることなく、理由も聞けず終いで祭礼は始まってしまった。
 シンヤという官は帝であるヨウカ兄上の一番近くで働く男だ。文官全体をまとめる位にあって、兄上からの信頼も篤い。兄上からの言伝なら忙しくてもネイサの側仕えであるシュウが受け持っているはずだった。ただ、シンヤは間違いなくヨウカ兄上に最も近しい官だからシンヤの言うことはヨウカ兄上が言うことと相違ないのだ。だから、ネイサはシンヤから言われた言葉にすんなりと従ってこうして馬に乗っている。今更になって、無理にでも理由を問い質すなりすればよかったと後悔の念がふつふつと湧いてでてくる。ヨウカ兄上に一言でも聞ければ、これほど悩むことも憂いを抱くこともなかっただろうに、周囲の言葉に流されてここまで来てしまったことが喉の奥に痞えたしこりとなって気分が悪い。
 なぜ、あれほど平和に栄えているヨルガの廟堂から、逃げるような真似をしなければならないのか、全く可笑しな事だと眉根を寄せてしまうくらいネイサは国から出なければいけない理由がわからなかった。
 真っ暗闇の中タッサンは迷いない手つきで馬を進ませ、山頂へとのびる緩い坂を登って中腹らしいところに着くとやっと馬を走らせることをやめた。タッサンが先に馬から降りて次にネイサを降ろし、山の木々に隠れるようにして建っている草葺の小さな小屋の近くに馬を引いていった。
 馬に跨り続けていたせいでネイサの足は強張っていて、タッサンの後に遅れてついて行くと簡易に作られた馬小屋らしいところに馬をつないでからタッサンは振り返り、ネイサを草葺の小屋へ促した。
 板戸を引いて草庵へ入るが、月無しの日で手提げ灯りも持たずには小屋の中など全く見えない。ネイサが入ってすぐに足を止めたままでいると、後から入ってきたタッサンは戸を閉めて慣れた様子で暗闇の中を歩いていってしまう。
 石を打ち鳴らす音がした。陽色の火花が散ってタッサンが添えていた付け木に息を吹きかけると炎が燃え上がる。炎を炉に入れると室内が仄かな灯りに照らされた。
「むさ苦しい所ですがこちらでお休み下さい」
 炉端からかけられた声にはっと視線を向けて、ネイサは沓を脱ぎ中へあがった。タッサンが敷いてくれた布の上に恐る恐る胡座をかいてから、出来るだけ平静を装ってネイサは口を開いた。
「タッサン、と言ったか。これは、一体どういうことなのだ。私を国から連れ出そうとしたのは誰だ?」
 まずこれを聞かねば、ネイサとしても身の振りようがない。シンヤの口からこの男の名が出たのだから、知っていれば事情は話してくれるだろう。
 膝を揃えネイサに向けて座っているタッサンは拳を膝の上に置き、居住まいを正すと答えた。
「これはシンヤ殿の指示にございます。廟堂は今、危うい状況にある。これに思い及ばれたシンヤ殿から、ネイサ様を国の外へ遠ざける命を賜わりました」
「廟堂が、危険であると……? 何を言っておるのだ」
 ヨウカ兄上が治めている廟堂のどこが危険であるというのか。現に、今日まで過ごしていた廟堂に不穏な雰囲気など微塵も感じられなかった。
 非の打ち所がないと言っても過言ではないあの兄上は、廟堂の者からの信望も篤く国民からも慕われる帝だ。その、兄上がいる廟堂が、危ういなど、この男は何を言っているのだろう。
 ネイサの眉は顰められ口は引き結ばれる。タッサンは自らの言葉をまるで信じようとしていないだろうネイサの姿に、心が痛んだ。自分が仕えていた帝、ヨウカに比べて前に座す弟君が余りに小さすぎるように思ったのだ。
 ヨウカとネイサは八つ離れていた。穎悟なる知性を片手の指にも満たぬ歳の頃から遺憾無く発揮してきたヨウカは、すぐさまその才を見出されて誰もが帝の第一子であるヨウカが次代の帝として玉座に就くことを疑わないほどであった。見目の麗しさや眼光の鋭さも合わせて、人を惹きつけてやまぬ姿は誰の目にも眩しい存在だったのだ。
 一方、弟であるネイサはそんなヨウカの影に隠れるように育ってきた。ネイサが決して劣った容貌であったという訳ではなく、ヨウカ程と言えなくも利発な子供でもある。ただ、ヨウカが出来すぎていただけだった。しかし、身近にいるせいで誰よりもヨウカとの差を顕著に感じてしまったのがネイサだ。生まれつき人の前へ出て行くような勝ち気さがなかったことも一因ではあるだろう。ネイサは自らの兄を敬慕する控え目な弟だった。
「ヨウカ兄上は、何も申しておられなかった。これはシンヤの一存か?」
「シンヤ殿、並びにサラハ殿とユン殿、シュウ殿の考えでございます。他、帝にお仕えする者がネイサ様を国外へお連れするこの策に通じております。これは、極少数の官がネイサ様の御身を案じ断行致しました」
 常から顔に表すほど怒らぬネイサだったが、今は疲れに加え、頼りない思いと、今日まで話したことも見た事もなかった男しか側にいないという状況に知らずうち、険しい顔で声を硬くしていた。
「だから、先から何のことを申しておるかと聞いておる。ヨルガの国が危ないとはどういうことか」
 何か、自分の力及ばぬ事が起きているのだろうことはここまで連れてこられる間、祭礼の直前に顔を見せたシンヤや、御前台の中で入れ替わりを務めた若い側女の姿、有無を言わさぬタッサンの様子からよくわかっていた。しかし、ネイサは話の中心をぼやかされている気がして納得いかない。
「ネイサ様」
 タッサンは目の前で鋭い眼光を持ってこちらの答えを待つネイサの注意をひくよう名を呼んだ。
 ネイサを逃す大役を、シンヤに与えられてからずっと言うべきか言わずでおくべきかと考えていたことを、今やっと口にするべきだと思い切った。
「帝であられるヨウカ様は、三日前に御隠れになられました」
 タッサンがヨウカの名を告げた途端、ネイサの顔は険しかった表情が消え噛まれた唇が色をなくした。
「兄上が亡くなったなど、聞いておらぬ……。なにも」
 言葉尻が音とならずに吐き出される。思い出したように炉から爆ぜる音が大きく響いた。
 沈黙してゆっくりと俯いてしまったネイサの顔は翳り、てらてらと篝に照らされるのは解き梳かれた髪艶ばかり。タッサンは何を言ってもネイサの慰めにはならない気がして言葉を続けることが出来ずにしばらく黙りこんだ。ネイサからすれば今日まで知らなかった他人に大事な身内の死を告げられ、その姿を確かめることさえ許されずでは、とても信じることなど出来ようもないだろう。
「ヨウカ様はネイサ様を、案じておられたと、私は確信しております。この策に関わった者の総意はヨウカ様のご遺志を遂げることであり、ネイサ様の御身が無事でなくてはならなかった。ネイサ様、帝の薨去を三日も謀っていた私達を許す必要は御座いません」
 ネイサはそっと顔をあげタッサンへと視線を向けた。
「ただ、どうか生きて頂きたい。生きて、ヨルガへ戻れる日をお待ちになって下さい」
 昨日迄は赤の他人であった男が、武張った振る舞いを精一杯押し込めて、お付き人であったシュウの様に願い諭す姿がネイサにとっては不思議に思えた。なぜ、この男は私にこれほど目をかけようとするのか。それも、ただ命令を受けて無感情に遂行するのではない、タッサンは心からネイサに言葉をかけている。ここまで考えて、ネイサは思った。廟堂に数多いた者と同じく弟である私をどうでも良いと思っているなら、恐らく多大なる危険を冒す策の骨にはならないだろう。
 だが、ネイサはヨウカが亡くなったのだという言葉を全く信じられなかった。この点においてはタッサンが嘘を言っているとさえ思えるくらいで、素直にタッサンの言葉に頷き返すことが出来ない。精々がタッサンの言う事を聞く迄である。頷いたが最後、この目で確認してもいないヨウカ兄上の死を信じることになってしまうと思った。
「タッサン、少し外へ行ってもいいか」
 返す言葉を持たないネイサは庵の中でタッサンと顔を突き合わせているのが居辛く思い、話の腰を折るようにして言った。
「遠くへ行かれるのでしたら、供させて下さい」
「そう遠くへは行かぬ。少し外で息がしたいのだ」
 安心させるように柔らかい調子でネイサが言うと、さっきのことに気を害する様子もなくタッサンは答えて簡易ではあるが庵の裏に厠があると教えてくれた。ネイサは立ち上がり、筋が痛む足に靴を履いて庵を出た。
 草庵は木立に囲まれており、上を向いても木々の枝に隠され切り取られた星空しか見えない。廟堂の庭園は整えられていたからこんな鬱蒼とした木々の間から空を眺めた覚えなど無かったと思う。木立の方へ歩くと、石面が滑らかになっている石を見つけた。座る所も他になく、両足は未だに痛みがとれずにいたので止む無くネイサはその石に腰掛けた。硬く冷たい石といえど土に座るよりは増しだと思ったのである。
 まるで、自身に起きている事柄がネイサには白昼に見る夢のようで判然としなかった。こうして一人になれば少しは落ち着いて考えられるだろうと思ったが、未だ胸中では得体の知れない感情が内側から自分を喰らっていくようで何とも気持ちが悪い。
 ネイサは、平穏な場所に生きていた。ヨルガ国は、廟堂は、平穏な場所だと思って信じていた。ヨルガは戦をする国であるけれど、その戦火は主都までは及ぶことはないと、ヨルガ国史の中でも廟堂は一度たりとも落とされなかったのだから、そのままであるのだとずっとそう信じていた。ヨウカ兄上がいれば、戦に勝利を重ね国は繁栄して主都は華やぎ、帝弟子である自身は廟堂の片隅で安穏と生き最期を迎えるだろうと思っていた。
 ヨルガを興国した創士帝の頃から国の礎には、元祖自分たちの手にあった大地を再び手中に収め、広く大地を治める為の手段として戦があった。これは尊き義戦であり一つも間違ったことではないからヨルガが負けることはない、況してやヨウカ兄上の治世は綻びのないものだったのだ。
 そうだ、ヨウカ兄上が亡くなったなどと言っているが、何故この三日間誰からも事が伝えられなかったのか。変な話ではないか、弟である自分にも、セン姉上からの沙汰も、私の周りを世話するシュウからでさえ一言も無いのだ。祭礼の広場に並んだ御前台は三つで、これは帝の血族であるヨウカ兄上とセン姉上と弟である自分、三人のものだった。あの時点で兄上が亡くなっていたのなら、何故国民にも偽っていたのか。
 タッサンから告げられたこの策に通ずる者の名は全て廟堂ではヨウカ兄上の近くにて働いていた者達の名である。ならばこの者達が私を騙そうとしているとでもいうのか。否、兄上が生きていれば、私を連れ出す策など見通している……生きておいでなら。では、兄上が、兄上が私を遠ざけようとする理由はなんだ。
 ネイサが考え耽っていると、木々の向こうから馬の走る音が聞こえてきた。驚いてネイサは音を立てぬよう腰をあげる。夜更けに好き好んで馬を走らせるものはいないだろう、故あってこの山を越えようとしているわけだ。ちょうどネイサとタッサンが馬から降りた辺りで音が止まる。そこで降りたらしい。ネイサは恐る恐る、木の後ろに隠れて音の方へ近寄り覗き込んでみた。
 木々の間から見える姿に、ネイサは「あっ」と声を上げそうになり、慌てて口を押さえた。
 月の無い夜ではよく見えぬが、何かを探すように周囲を見回す黒い影が見えた。影の背には弓と矢筒らしいものがある。城下街へ続く石門の所で見た女の背格好によく似ていた。あの場で気付かれていたのだとしたら、後をつけてきたのかもしれぬ。ネイサは見つからないように木の影にぐっと身を縮めて隠れた。
 もしかしたら、タッサンと自分を探しに送られてきた者なのかもしれない。木立に隠れるように立ってはいるが、このまま庵を見つけられてはタッサンが危ないだろう。なんとか、タッサンに知らせなければ。影は辺りを見渡したまま動こうとしない。今しかネイサが知らせに動ける時はないのだ。
 息を殺し、ネイサは草葉の上をなるべく静かに歩いた。幸いか、月無しの夜、そして頻りに風の吹く今宵はネイサが歩く音を隠してくれる。もう一度影の方を向いて相手が一人であることを確認して庵の方へ急いだ。
 庵の前へ来てから、扉を開けようとしたネイサだが、その手が止まる。庵の中には耿耿と焚かれた炉があるのだ。このまま扉を開けては気付かれてしまうのではないだろうか。ネイサはすぐにでもタッサンに伝えたい気持ちをこらえて、庵の右手にある馬小屋の方へ歩いた。
 馬小屋の方へ来ると馬は桶に用意された秣を食んでいた。ネイサの方へちらりと視線を向けたが食むのは止めない所から見ると、特に気にしていないようだ。馬小屋の奥の方へ両手を差し出しながら暗闇を泳ぐように進むと、馬の体躯に隠されていた奥の壁から、一筋光が漏れていた。隙間に目を当てると仄かな明かりの中にタッサンの横顔が見えた。庵と隣り合わせになっているここの壁が剥げ落ちたのかもしれない。
 指一本分の隙間だ。ネイサは壁をトントンと叩いてみた。
 しかし、炉の近くで鍋をかき回しているタッサンは気付かない。今度は穴へ口を近づけ、タッサンの名を呼んでみる。
「タッサン、タッサン」
 それから覗くとタッサンは手を止め、顔をあげた。もう一度名を呼ぼうとした所で、ネイサは馬が人に引かれてくる音に気付き、後ろを振り向いた。
 こちらに、来る。
 馬を引く音は、馬小屋の前で止まった。ネイサは穴から離れると馬小屋の隅に身を寄せ腰を屈める。あの穴は馬の影にあるから光は漏れないだろう。影は馬を近くの木につなぐと馬小屋の中へは来ず、庵の方へ歩いて行ってしまった。ネイサは影がいなくなったのを確認するとすぐに振り返り、覗き穴に目を透かす。庵の中は真っ暗になっていた。炉にあった火は消え、熾が微かな色を示しているだけである。物音はしなかった。
 タッサンはきっと気付いたのだ。あの影の者から不意打ちを受けなければ良いが。ネイサは馬小屋の奥から物音を立てぬように外へと出る。道は暗闇だが、ネイサの目はもう暗闇に慣れていた。人の影くらいなら見つけられる。小屋の裏から、入り口の方へ歩く。
「ジュナンだったか」
「は、タッサン殿。いらしておいででしたか」
 ちょうど、ネイサが小屋の横から入り口の方を伺おうとした時である。タッサンの声がした。慌ててそちらを見てみると、タッサンともう一人、背に弓と矢筒を背負った者がいる。
「追者はいたか」
「いえ。未だ知れていないようですが事の次第によっては危ないでしょう。ネイサ様はご無事ですか」
「無事連れて参ったが、ジュナン、ネイサ様を見ていないのか」
「はぁ、見ておりませんが」
「先ほど馬小屋の方からネイサ様の声がしたものだから、追者かと思い急ぎ出てきたのだがな。もしかしたら、ジュナンを勘違いしたのかもしれんな。私は探しにいこう」
「それでしたら、私が」
「いや、ネイサ様にはお前が来ることを伝えておらんのだ。炉の火も消してしまったからな、焚き直してくれるか」
「わかりました」
 ネイサは一部始終を聞いて、すっかり力が抜けてしまった。
 あの女はタッサンの知り合いだったのだ。なんとも間抜けなことだろうか。途端に見当違いな考えをしていた自分が恥ずかしくなって、ネイサは座り込んだ。
 ジュナンが小屋へ入って行く。タッサンは歩き出そうとしていた。ネイサはタッサンの前に出て行くにも羞恥を覚え、やっとの思いでタッサンの後ろ姿へ駆け寄った。
「すまぬ!」
 タッサンが後ろを振り向く前にネイサは声を振り立てた。
「あの者を疑ってしまったのだ。無駄な騒ぎをたててすまぬ」
 ネイサが恐る恐る顔をあげると、タッサンは武骨な目元を緩ませていた。
「よかった。謝ることなどありませんよ、ネイサ様。先にお伝えしておらず、申し訳御座いません。あの女はジュナンと言って同行する者なのです。さぁ、戻りましょう」
「……怒ってはおらぬか。煩わせてしまった」
「ネイサ様。私は安心いたしました」
 たいそう感心したという様子で答えるタッサンを不思議に思ってネイサは「なぜだ」と言った。
「怪しき者を伝え、無事に隠れていらした。とてもご立派です。この先、再びこのようなことが無いとは言えません。いえ、今度はジュナンではなく、本当に追っ手がかかるかもしれないのです。用心するというのは中々難しいことですが、ネイサ様ならば今度同じことがあったとしてもきっとまた上手くできる」
 全く恥ずかしい勘違いをしたというのに、手放しに褒められるとネイサの方は落ち着かない。ネイサの間違いを気にもせぬタッサンは、相当に気の良い人なのかもしれぬとネイサは思った。