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市井



 炉の向こうに座る女は弓弦に油を塗っている。タッサンの方は馬の秣を足してくると言って先ほど出て行ってしまったところだ。
 ネイサは両手におさまる椀に盛られた汁物を、一人ぽつりと食べていた。タッサンと草庵に戻ってからジュナンが起こし直した炉の火を囲み、タッサンが用意していた食事をとることになったのだが、二人は早々に食べ終えてしまったのである。
 廟堂で夕餉をとる刻限はとうに過ぎていた。いつもであれば湯浴みも済んでいるところだ。
 あれから、ジュナンはネイサに改めて名を告げてそれきり言葉をかけてくることは無かった。周りにいるものから話しかけられることの多かったネイサは何か話したくとも自分から声をかけた覚えが余りなく、この状況でなんと声をかければよいのか迷った末に結局話せずにいる。
 ジュナンはタッサンとも必要以上に言葉を交わさない女だった。元来、寡黙な質なのだろうか。こういう時、ネイサは話上手なセン姉上を羨ましく思う。匙で掬った粥が椀に戻る、どうにも食べる気がしない。
「匙が進みませんか、ネイサ様」
 椀から顔をあげると、ジュナンが手を休めてこちらを向いていた。その声音は想像していたよりずっと柔らかい調子だ。
 ネイサははにかみつつ「あ、あぁ。どうも腹が空いていないようでな」と答えた。
「慣れないことにお疲れなのでしょう。夜が明けましたらここを出ますので、どうぞお早くお休み下さい」
 半分ほど残った椀の中身を平らげることができなさそうに思えてネイサが椀を置くと、ジュナンがそれを下げてからまだ湯気のたっている茶を出してくれた。
「ジュナン」
 名を呼ぶと、ジュナンは顔をあげる。
「ジュナンは、兄上に仕えているのか」
 シンヤが名を知っていたタッサンとは違い、ジュナンという名はタッサンの口からつい先ほど聞かされたばかりである。タッサンはこれから先同行することになる者で、自分と同じように頼ってくれと言っていた。
「はい。私はヨウカ様にお仕えしていた者です。廟堂にいた者とは異なっておりますが」
「そうか、廟堂にはいなかったから私が知らぬのだな」
 ジュナンはふ、と口元を笑わせ頷く。
「タッサン殿も、私も、廟堂にはほとんど身を寄せておりませんでしたからね。知らずとも無理はありません」
「では、市井に下っておったのか?」
「そうです、ヨルガの様々な場所で過ごしておりました」
 ヨルガの真ん中に位置する廟堂に生きていたネイサだが、廟堂を出たことは数えるほどにしか無い。だから当たり前のように外で生きている者が羨ましくあった。
「ヨルガを歩き回れるとは、羨ましく思う。私はずっと廟堂から出ることなど無いと思っていた」
「外は厳しい場所ではありますが、共に素晴らしいものです。きっと、ネイサ様もこれからそんな場所を見ることができます」
 いつもであれば楽しみに思うであろう言葉も、今のネイサには廟堂に帰ることはできないのだと言うように聞こえてしまう。ネイサは自分でもわかっていながらジュナンに尋ねた。
「やはり、もう廟堂に帰ることはできぬのか?」
 ジュナンは目を伏せる。
「今暫くの辛抱でございます。どうか私たちと共にお待ち下さい、ネイサ様」
 タッサンも、そう言った。待てば帰れると。ヨウカ兄上は、どうして私を遠ざけようなどとお考えなのだろう。追っ手がかかるとも言っていたが、追っ手に捕まったなら私は連れ戻されるのだろうか、タッサンやジュナンは、どうなるのだろう。
 庵の戸が開き、タッサンが戻ってきた。炉端にいたネイサを見ると驚いた顔をして口を開き「まだ起きておられたのですか」と言う。
「申し訳ありません、すぐに寝床を整えましょう」
 ジュナンが立ち上がり隅に寄せてあった荷物の中から巻き布を取り、一角に敷きはじめる。タッサンが炉端に座す。
「ネイサ様、明日は陽が昇った頃にここを発ち、水瀬ノ疾へ向かいます」
 水瀬ノ疾という名は聞いたことがあった。ヨルガの北にある村で、ヨルガの真ん中を流れる川の上流に当たる場所だという。ネイサには地理書の中で見聞きしたに過ぎない物の名である。
「水瀬とは北の方か」
「はい。そこに着く前に井堰を越えます。まだ秋口ですから人も多く出ているでしょう。そこで、ネイサ様の名が知れては騒ぎが起きないとも限りません。大変ご無礼な事を申し上げますが、名を偽って頂きたいのです」
「名を……?」
「ヨルガの国中には、帝一族であられる、ヨウカ様、ネイサ様、セン姫様の御名が知れ渡っておりますから、同じ名であるというのは良くも悪くも目立つのです」
 生まれてこの方ずっとネイサという名に親しんできたから、違う名を名乗るのはむず痒いもので出来ることならそうしたくはない。けれど、ネイサという自分を隠して生きようと思うのならタッサンの願いは尤もなのだ。野に紛れるには、ネイサを捨てねばならない。
「違う名を、名乗れば良いのだな。わかった……、なんと名乗れば良い」
「ではこのタッサンが、名をお付けする不敬をお許しください」
「構わぬ、私が考えるよりきっと民に近い名だろう」
 ネイサは民らしい名、というのはよく知らなかったが市井で過ごすタッサンに付けて貰えるならそれが良いと思った。
 寝床の用意を整えたジュナンが炉端に戻ってくるとタッサンは沈黙を解きネイサに視線を向け、新しい名を告げた。
「キゼン、という名に致しましょう」
「キゼンか。建国神話に聞いたことがある。私は、キゼンと名乗れば良いか」
「はい。いかにも、ヨルガの建国神話に名を列する気骨ある兄弟の名であります。民の間ではこの兄弟の名をあやかって男児に名付け、子供の良き成長を願うのです」
 ヨルガ国の初めの帝、今は創士帝とよばれるイシクを助けた武人に二人の兄弟、タイゼンとキゼンという男の名前がある。イシク帝の命が狙われたその危機をタイゼンとキゼンの二人が振り払う、強く勇ましい男たちであったと説話には書かれている。
「強い男の名だ」
「強くあってほしい、という親の願いが込められておりますからね」とジュナンが答えた。
 強くある。まるで自分には似合わぬ名だな、とネイサは思う。廟堂の武官ならまだしも、腕節が強い訳ではない自分では不釣り合いに感じた。
 タッサンは頭を垂れ、言葉を続ける。
「これより、私達はネイサ様の御名をお隠しし、キゼンとお呼びいたします」
「では、私はキゼンと名乗ろう」
 説話の兄弟にある一人程は強くなれないにしても気持ちだけは強めてくれるような気がする。頷いてもう一度「キゼン……」とネイサは呟いた。
 ジュナンが炉に炭を足してタッサンに言う。
「お疲れでしょう、もうお休み頂いては」
「そうだな。明日も早い、お眠り下さい」
 二人に促され、ネイサは敷き布に寝転がる。硬い床板の感触が肩に当たって寝心地がいいとは言えない。顔を壁の方に向けて背後に炉の火が爆ぜる音を聞きながら瞼を閉じる。横になると身体中が重たく感じ、すぐに沼に沈むようにしてネイサは眠りに落ちた。
 ネイサが寝入ってからジュナンは庵の外へ出て行き、タッサンは炉端で横になり目を瞑った。炉の炎が小さくなり熾だけが弱く光る。ネイサは布に包まり静かに寝息をたてていた。
 タッサンが身を起こし庵を出ると、戸のすぐ横にいたジュナンが顔を上げる。
「祭りの次第はどうなった」
 月無しの夜はあと一時もすれば明けるのだろう。風は止む様子も無く、タッサンの言葉は隣に立つジュナンにしか届かない。

「事はサラハ殿が読んだ通りに進みました。帝と帝弟子は御前台に向かってきた二人の凶手により民衆の前で命を奪われ、凶手は捕らえられました。御二方の安否は伏せられていますが、城下では御二方の死も囁かれております」
「そうか、やはり真になったか。読みの当たるサラハと言えどなんとも……」
 タッサンは眉間に皺を刻み、片手で口を隠す。
「もう一つ城下で持ち切りになっている話が、中心都の騒ぎを収めたセン姫です」
「セン姫が?」
「はい。セン姫が広場にいる民に弁じたのです。二人の凶手は捕らえられた、これに滅入ることなく祭を終の日まで執り行うようにと」
「なんと……セン姫が動くとは誰も予測していなかった」
「しかしそのセン姫によって民の混乱は一先ず収まったようです。祭を無事終え、戦を終えるまではきっと御二方の死が告げられることはない」
「一昨日から始まった戦の士気を下げることはしない、ということか」
 祭の前日に出兵していった男達は今頃戦線にいるのだ。戦線の者へ帝の訃報が伝わればまず間違いなくどこからか敵国にも漏れる。
「大々的な祭です、他国に気付かれては一気に付け入る隙になりかねない」
「まだ表向きにはなっていないのならば、明日の井堰越えも楽に行くといいのだが。廟堂内の動きがわからんといつ追者が来るかもわからんな」
「私にお任せ下さい。追者は責任を持って見つけます」
「あぁ、お前の目を信用している。少し休んでくれ」
 ジュナンは礼をして庵の中へ戻ると、炉に炭を足してから横になり短い眠りに落ちた。
 庵の外ではそれから東の空が白むまでタッサンが草陰に気を張っていた。
 鳥たちが朝を告げて鳴きはじめると薄明かりの空高くに翳りのない白く小さな雲が幾つも浮かぶのがタッサンの目にも見えるようになった。馬二頭の世話をしてから草庵へ戻ると、目覚めていたらしいジュナンが飯の支度をしている。ネイサはまだ眠っているようである。
「悪いな、後を変わろう。もう暫くしたらキゼンを起こしてくれ」
「わかりました」
 ジュナンは荷の中から着物を一揃え取り出し、手拭いを一つ湯の入った水桶に浸けた。炉にかけられた鍋から朝餉の香りがしてくると、ネイサが包まっていた布の中で身じろぎをする。ジュナンが起こそうとする前にネイサは身を起こし、寝ぼけ眼を手で擦った。
「おはよう」
 ジュナンが声をかけるとネイサはうんと頷いて、ぼんやりした顔のまま炉で煮える鍋を眺める。
「顔を拭いたら朝餉を食べるといい」
 湯気の向こうからタッサンが言う。ジュナンは手拭いを絞り、ネイサの前に座ると手渡した。
「ほら、顔でも拭くといい」
 仄かに湯気のあがる手拭いで顔を拭くと、起き抜けよりすっきりした顔を取り戻したネイサはぱちりと目を開く。
「二人は、朝が早いな」
「町で立ち働くものはこんなもので、農民などはもっと早い。さ、朝餉だ」
 タッサンは雑炊をよそった椀を炉端に座ったネイサに手渡した。
 昨晩とは違ってネイサも椀の中身を残さず食べ終え、ジュナンに手伝われて身支度を整える。着慣れない服だったが、廟堂で着るようなゆったりとした服よりかずっと動きやすいとネイサは思った。
 草庵の荷物をまとめ、いよいよここを発つという折になってタッサンがネイサを呼んだ。
「これから先、タッサンとジュナン、我らはネイサ様をキゼンとする」
「あぁ、わかっているが」
「言葉を改めて接することも、ご承知頂きたい」
「タッサン、私はネイサでは無くなったことは理解している。民の子らと同じようにということだろう?」と、ネイサは得意げに言ってみせる。タッサンは畏まっていた顔を平らにし頷き、笑みを浮かべた。
 陽が昇りきるより前に、ネイサはタッサンが轡を持つ馬に乗り、同じく馬に乗ったジュナンと草庵を出立した。
 間も無く差し掛かった峠から見える秋の空は高く、雲と対比していっそう色付いて見える。眼下には紅や黄に色を変えた森が続きその奥に屋舎が粒ほどの大きさで並んでいた。
「あれは、町か?」
 馬を駆るタッサンはネイサの言葉に頷いた。
「午にはあの町に着く。買い物を揃えて夕方まで馬で進むが、キゼンはジュナンと共にいてくれるか」
 キゼンという名を聞くとネイサは剣劇に出てくる役者の一人になったようでくつくつと可笑しく思った。
「わかった、ジュナンといる。タッサンはどこかに用事があるのだな」
「そうだ。調達できる物を調達して来ねばならんからな」
 調達と聞いて、ネイサは改めてタッサンとジュナンが持つ荷を見てみれば、得物の他には包み一つをそれぞれ肩か腰に括っているだけだということに気づいた。加えてネイサ自身は一つも荷らしい荷を持っていないのだ。旅に必要な荷を整えねばならぬのだろう。
 山道を健脚な馬達のおかげで苦もなく進み、森を越えて三人は町の近くに着いてから馬を降りた。タッサンだけがその場で別れ、ネイサがジュナンと共に行くと、町の入り口から左に行った所に「馬やど」と看板のかかった厩舎が見えた。
 ジュナンは馬二頭を手慣れた様子で預けると馬やどを出てネイサを振り返る。
「キゼン、店を見に行きましょう」と、言うジュナンの後をついてネイサは午の陽光に照らされ目を細めたくなるような陽気を味わいながら店が並ぶ通りについた。町を三つに縦断する大通りの内真ん中がここ一番の店並びらしく、子供が走り回っていたり荷物を担いだ男達が歩く姿、女が呼び込む声で賑わっている。旅宿から始まり茶亭、飯処、酒屋と旅の合間に寄るらしい店が多い中、薬舗や着物屋、書房、小間物屋もある。どれもネイサは初めて見るものばかりで、小さな室に所狭しと並べられている品物を見るだけで目移りして歩調が狭まった。ジュナンも辺りに目線を走らせているネイサの歩調に合わせて歩みを緩めると、気づいたネイサが顔を上げて「町はどこも騒がしいものなのだな」と感心するように言う。
「ここは主都からほど近い町で、馬が走る。だから、都から物が移り、地方からも物が通う。そんな場所だから、特別賑わっているのよ。ほら、あの羽織は都に大店を持つ着物屋のもの」
 廟堂で過ごす静けさに満ちた日々よりか、下々はずっと人の声や音や色に満ちているのだ。
「色々な物が入ってくる所では、必要な物も揃えやすいのよ。食事に間に合うよう手早く買い物をしてしまおうか」

「食事は、ここで食べるのか?」
 ネイサは先ほどから鼻をくすぐる良い香りの先を見つめて期待を秘めた声で尋ねた。
「えぇ。何かお腹に入れないと、疲れては先に立たないから。後で食べたい物があったら言いなさい」
 廟堂では知らぬ匂いに想像を膨らませて、何か楽しい事のようにネイサは頷いた。
 それから直ぐに二人が入った店は大通りの先にあり、人の賑わいとは離れた店だった。室を埋め尽くすように沓が並べたてられ、鞣された革の臭いが鼻をつく。明るい大通りから入った店内は暗く三度瞬きをしないと目が慣れない程だった。
「いらっしゃい」
 店の奥から若い声がかかる。ネイサが顔をあげると奥から顔を出し、笑顔をこちらに向けている少年がいた。年の頃はちょうどネイサと同じくらいである。半端に伸びた後ろ髪を無造作にくくり上げ、着物の袂を細ひもで縛った格好は通りを走り歩く子供とはちょっと違って見えた。
「こんにちは。沓を見繕ってほしいのだけれど」
 ネイサの先に立つジュナンは人好きのする笑顔を浮かべて見せ、ネイサの背をそっと押して前へ立たせた。ネイサが少年の方を見ると、少年は上がり框から降りてきてこちらに軽く会釈をした。
「こちらの方に?」
 少年はネイサを手で示す。
「丈夫で歩きやすい靴がいい。後、馬にも乗れるような」
「短沓より長沓がいいかな。ちょっとこちらへ座って下さい」
 少年に促され上がり框の近くに置かれた腰掛けにネイサは座る。昨日祭礼から出てきた時にはかされた沓は粗末な草鞋で、今日に至っても変わらず足袋の中にある素足は履き慣れない沓のせいで赤くなっていた。今朝ジュナンに教えられた草鞋のこま結びを外して草鞋を脱ぐと少年は木で作られた台を腰掛けの下から引っ張り出して足袋も脱いでここに足を置いてくれと言う。
 ネイサは足袋を脱いで赤くなった足を台に置いた。
「こりゃあ痛そうだ、歩き慣れない道でも歩きましたか。足が細いね、お客さん」
 珍しい物でも見るように少年は言って、台と器具を使って寸法を測り始めた。ネイサが盗み見た少年の足は程よく日焼けしていて、幅が広く自らの足とは全く違って見える。ふとジュナンの足を見るが、女人であるはずなのにネイサの足よりか大きい。考えれば身の丈もネイサより頭一つ分と少し高く、他の男と並んでも余程の大男でない限り引けは取らない。
 急にネイサは自分がどこをとって見ても市井に馴染まぬ背格好をしていることに気付いた。いくらキゼンだと思い込んで民子と同じように振る舞おうとしても育ち方が違うのだ。廟堂にいた側女達は皆ネイサと同じくらいかそれより小さく、しなやかな身ごなしだったから男の自分とは違うと思っていた。けれど、一歩外に出てみればタッサンの様な男らしさもないし、ジュナンの様に世事にたけている訳でもない。足のおぼつかぬ幼子のようである。
「初めて首都の祭に行くことになって、すっかりはしゃいでいたから山歩きは辛かったようでね」
 恥ずかしくなって膝に置いた手を見ていたネイサのかわりに、横に立ち見守っていたジュナンが答えた。
「そうですか、ヨルガの祭はすごいですからね、俺も初めて行った時は見入りましたよ。あの大きなお城が小さく見えるくらい遠くまで人が集まるし、平時でも華やかなのに祭中はいっそう光って見えますしね。あれ、まだ始まったばかりでは無かったですか?」
 少年は立ち上がり、台の奥に置かれた沓を選びながら言う。
「あいにく日頃が合わなくて、昨日には発ってしまったからあまり見せてやれてないんだよ。ね、キゼン」
 ジュナンに声をかけられて、身を潜め黙りこくっていたネイサは困惑の表情を浮かべたが、視線の先でジュナンが悠揚とした態度をしているのを見て頷くと口を開いた。

「残念だったよ。もう少し居たっていいだろうって言ったのに。祭が始まるか始まらないかの時に帰るなんて、あんまりだろう」
 二足の沓を小脇に抱えて戻ってきた少年はネイサが答える姿に口を開けて笑った。
「全くだ。初めて行ったのがそれじゃぁ臍曲げる気持ちもわかるってもんだな。さ、これを履いてみてくれるかい」
 足を置いていた足置き台の横に膝下を隠すくらいのくたっとした皮を張り合わせてある沓と、足首の上にかかるくらいの黒い皮沓が置かれた。黒い沓は廟堂で騎馬の時間に履く沓と似た沓だ。
 ネイサが足を入れると黒い皮沓はすっぽりと足にはまり、まるで大きな皮袋に足を突っ込んでいるようであった。両足を入れて足首の所を紐で結ぶと少年はネイサに立ち上がるよう言った。
「こいつは馬上沓の立挙を少し伸ばして走りやすいようにしたんだけど……うーん、幅に遊びがありすぎるなあ。これじゃぁ足が痛くなるのも変わらないな」
 ネイサが歩く様子を見てすぐに少年は眉を寄せた。もう一つの沓を試すよう言われ、ネイサはくたりとした沓に足を入れる。てろりとした皮が垂れる所を少年が紐で縛り、余った履き口が外側に垂れた。
「これなら紐で縛ってる分、ズレもしないし歩きやすい。すっきりしてるから騎馬の邪魔にもならないだろう? こいつでどうだろう、姉さんもよくよく見てやってよ」
 柔らかい皮が足を包んでいて歩きやすい。紐で縛っているから簡単に脱げることもなさそうだ。底は厚く、麻紐が滑り止めになっている。ジュナンがどれ、と言い指で爪先を押した。
「きつすぎでもないし、これぐらいがちょうどいいか。きっとこれから足も大きくなるだろうから。歩きやすい?」
「うん。これなら、大丈夫だ」
「これにしようか。幾らです?」
「壱百五拾句、特別に手入脂もつけておくよ」
 ジュナンは腰元の袋から紐に連なった銀銭を取り出すと台に置く。少年は銀銭をざっと数えるとここ一番の笑顔を浮かべた。
「きっちり壱百五拾句、頂きました。 履いて帰ります?」
「あぁ、そうだね。お願いするよ」
 いそいそと少年は帳場から出てネイサの足を取り、足袋を履くように促してから、沓の立挙を起こし沓紐を丁寧に結ぶ。
 その時、ひっそり静まり帰っていた奥の方から人の足音がしたことにジュナンは気付き顔をあげた。厳しそうな親爺が片手に雪沓と手入脂の小さな容れ物を持って立っていた。
「これも付けてやれ」
 親爺から雪沓と手入脂を受け取った少年は声を落としてこんなに付けていいのかい、と言ったがすぐに笑みを浮かべた顔で振り返り「爺さんが言うから、どうぞ持っててやって!」と言った。
 ジュナンは上がり框にいる親爺に頭を下げ、少年にも感謝を口にする。
「冬も歩きだろう」
 喋りそうにない無口な顔をしていた親爺が言う。
「そうですね。今年は」
「北国の生まれじゃぁ無いみたいだが、冬慣れしてなさそうな坊ちゃんだ」
「私も心配しています。なにせキゼンを連れての冬は初めてみたいなものですから」
「ま、アンタがいりゃぁ大丈夫だろうな。山狩でもするんだろ?」
「はい」
 親爺はジュナンの背にある弓と弓筒にある矢を見て言ったらしい。
「首都の沓屋は忙しかったのかい」
 親爺がジュナンに聞く。ネイサは先ほど少年とジュナンが話している時から、いつ素姓がばれてしまうかと冷や冷やしていたものだから、つい親爺の方へ視線を向けてしまった。親爺の厳しい目はネイサの顔を射抜いていた。
「首都は人でいっぱいでして、用も片付けなくてはいけなくて急いでいたのですよ。それに、首都でなくともこんな良い沓屋に来れたのですから」
 ジュナンは相変わらず落ち着き払った様子で微笑む。
「そうかい。そりゃあ、良かった。修繕もやるから寄る時があれば持ってくればいい」
「そうだぜ、ウチは冬でもやってるからな! いつでも持っといでよ」
 ネイサの足元から、靴紐を結び終わった少年が顔をあげて景気良く付け加えた。じっとネイサを見ていた親爺の視線は逸れ「お前はもう少しマシなもん作れるようになってから言え。店番しか頼めやしない」と苦い顔で言う。
 少年から手渡された雪沓と手入脂を持ち、ジュナンの元に戻るとジュナンは袋から出した銀銭をさらに台に置いた。
「こんなに良くして頂いて、ありがとうございます。また寄る時はよろしくお願いします」
 ジュナンの視線はしっかりと親爺の目を見ていて、ジュナンの作る笑顔に影は無いものの、ネイサはこの言葉の裏には何かあるのかもしれないと思う。
「……、急ぐならもう一刻もしないでここを発ったほうがいいかもしれんな。雨が降るってよ」
「えっなんだって、魚買いに行けねぇじゃねぇか! 爺さん、モトヨリ様の天予見かよ? 
大変だ。ちょっと外出てくら」
 今にも出て行きそうな少年の肩を掴み、親爺は「今日はいい、店にいろ」と厳しい口調で言いつけた。
「モトヨリ、様って、何?」
 聞きなれないその名に疑問を持ち、ネイサはジュナンの横で付かず離れずの距離から、ぽつりと口を開いて少年に聞く。
「あぁ、知らねえか。ここの町から川向こうにある社の女でな、なんでも雨とか嵐とかを予見出来るって人だよ。前の年にあった大嵐もモトヨリ様が予見したお陰で誰も流されずに済んだのさ」
「天候を当てることができるってこと?」
「そうさ」
 廟堂にいる学者は皆、何かしら研究をしていたから天候を予測する者達も勿論いた。けれど彼らは寸分違わずぴたりと何かを当てることは出来なかった。町にそれ程すごい者がいるのなら、廟堂にいる学者達は驚いてしまうのではないだろうか。
「凄い。当てられるなんて話、はじめて聞いた」
「だろぉ。最近ではちょっと評判だぜ。それはそうと、行かなくていいのかい?」
 少年に言われてネイサはハッと振り返る。ジュナンが店の軒下から通りの方を眺めている。待たせていたらしい。
「そうだった。じゃぁ、沓ありがとう」
「まいどあり、また来てくれよ!」
 明るい少年の笑顔に見送られ、ネイサは店を出て行く。暗い沓屋の店内にはまた老爺と少年の二人だけが残った。
「お前、あの二人は店にこなかったことにしておけよ」
 買った沓を履いた少年が軒下にいた女と共に通りへ出て行く姿をちらりと見て、親爺は少年に言う。
「えっ、なんでだよ」
「なんでもだ。お前、あの坊ちゃん見てなんも思わなかったか」
 親爺は台に置かれた銀銭を手にとり、溜息を吐く。少年は首を傾げて答えた。
「歩いたことねぇみたいな足はしてたけど……」
 親爺の脳裏に浮かぶのは、まだ自らの目が近い物を見るにも苦労しなかった頃、妻と共に行った首都の祭で初めて目にした帝一族の顔である。煌びやかな冠を被り、細面の顔には鋭い眼光と、細く高い鼻梁の下に、品のある唇が引き結ばれている、まるでこの世の物とは思えない。綺麗すぎる人形のような顔をした帝。居並ぶ一族も遜色ない顔をしているのだ。同じ人間とは思えない。
 暗い店内にいたとて、見違えはしなかった。もし自分の眼が曇っていないならば、あの子供にはその面影があったのだ。
「ありゃ首都の人だ。それもとんでもない高官の坊ちゃんてとこか。何があったのかは知らねえがな、神に触れれば祟られるってもんだぞ。わかったな」
「うん……」
 怒っている訳でもないのに不機嫌そうな雰囲気の親爺に気圧され、少年は頷いた。
 山の麓にあるこの町に、帝ヨウカ、帝弟子ネイサ、薨去の報が知れ渡ったのはそれから六日後の事だった。