ASiGaRu

追者



「なぁ。ジュナン、本当に雨を当てることなんて出来るのかな」
 粉を練って蒸した生地に、タレに漬け込んだ肉と葉を挟んだ食べ物を片手に、ネイサは沓屋の少年が言った話をずっと考えていた。
 外で食事も出来るように出された卓と長椅子だが、今は誰一人座っていない。晴れ最中に店の中でネイサとジュナンは昼餉をとっているのだ。
 ジュナンは既に食べ終え、共に買った菓子をつまんでいたが、ちょっと外を見てからネイサに答えた。
「もしかしたら、出来るのかもしれない。ある程度の天候なら、学ぶと皆が読めるようになる。全くぴたりと当てるとなれば、話は違うけれどね」
「ぴたりと当てるということは、外すことは一度も無いのか?」
 ネイサが言いたいのは、全く外れる要素無く天候を当てることができるのか、ということだった。ジュナンは少し考える素振りを見せる。
「当たると評判ということは、外れた回数が無いか少ないということだろうから、何かしら当てる為の知識があるのでしょう」
「その知識というのはなんだろう。皆、知れることなら知りたいと思うのではないか?」
 沓屋を出てからもうずっと頭を悩ませているネイサに微笑ましい思いを感じながら、ジュナンは卓と椅子が片付けられ物足りない人通りの向こうに、タッサンが歩いてくる姿を見つけた。
「あ、タッサンだ!」
 ジュナンが言うより早く、ネイサは声を上げた。どうやらジュナンの視線を追っていたらしい。ジュナンは長椅子から腰を上げた。
 背に手に荷物を負ったタッサンが、すくりと立ち上がった背の高い姿と向かいに座るネイサの姿を見留め、こちらへ向かって歩いて来る。
 タッサンは店に入ってすぐの所で二人が囲む卓に加わり、茶を一杯頼むと腰を掛けた。ジュナンも共に座り直す。
「キゼン、腹は満たしたか?」
 思わず、ネイサは「あぁ」と答えようとして言葉を飲み込み答える。
「あ、うん、食べたよ」
 タッサンは顎を擦り頷くと言った。
「よし、ならばそろそろ出るとしよう。ジュナン、仕度はどうだ?」
「大丈夫です」
 ジュナンはタッサンの言葉に答えた。ネイサは慌てて口を開く。
「タッサンは食べたのか?」
「俺は軽く食べた。気にしなくていい」
 来た時より多い荷物を抱えていうタッサンだが、支度を整えているだけで昼餉を食べる時間などなかったのではないかと心配になってネイサはもう一度きく。
「本当か?」
「あぁ。多く食べ過ぎても夜が入らんからな。さ、行くぞ」
 タッサンは事も無げにそう言って荷をジュナンにも渡すと席を立つ。ネイサは常に横にいてくれるジュナンと共に、先を歩くタッサンの後を追いかけた。
 馬やどに預けていた馬を木札と交換してジュナンが引き取る。二頭の馬は背に鞍を付け直されて、その引き綱をタッサンとジュナンが持っていた。
 町を出るタッサンとジュナンの背には荷物が増えているが、対するネイサはまだ沓が新しくなったくらいで荷物らしい荷物は背負っていない。ネイサの分は馬に括りつけられているのだ。
 ジュナンが町を出て少し歩いた所で馬を止めるようタッサンに言った。振り返ったタッサンとネイサが戻るとジュナンは声を落として続ける。
「三里先に鼬雲が来ています」
 鼬雲といえば、雨雲の異名であったはずだと思いネイサは空を見上げた。黒い雲が東の方からやってくる。雲の中で何かが筋上に光った。
「厄介だな、……キゼン、馬に乗るぞ」
 ネイサが頷く暇もなしにタッサンはネイサを馬上へ抱え上げ、自らもその後ろへ乗る。タッサンが掛け声と共に足を叩きつけると馬が走り出した。湿気った風がネイサの頬を撫でる。何か、むせ返るように濃く湿った匂いが鼻をつく。雨の匂いだろうか。山道を駆ける馬は前よりか急いでいて、ネイサはやはり体勢を崩さぬようにぐっと堪えているのがやっとだった。
 後ろを走るジュナンの方から、何かを弾き飛ばす音がして、風を切る音の直後、馬の嘶きが聞こえた。ネイサは後ろを振り向こうとしたが、馬上である。馬に乗り慣れていないネイサでは、自分の後ろから手綱を握っているタッサンの顔を仰ぐ事しか出来なかった。
「構うなキゼン! 落ちるぞ」
 タッサンは身動ぎしているネイサを嗜め、更に馬を駆る。タッサンが構うなというのだからジュナンはきっと大丈夫だと信じるしかない。それに、馬が地を蹴る蹄の音は聞こえていた。
 馬が走るせいで受ける風だけでなく、強い風が吹きつけてくる。四半刻近く山間の道を走り、途中で道を折れて、タッサンは山の中へ分け入っていく。
 両脇を駆け抜ける森の色が段々と薄くなると、馬は崖に沿って走っていた。顔に冷たい粒が当たる。見上げた空は薄暗い雲に覆われ尽くし、先を見ても雲の切れ目は見当たらなかった。すっかり雨雲に追いつかれていたらしい。
 タッサンがぐっと首を反らせると同時に手綱を引き、馬を後ろに向かせる。四馬身半向こうにいたジュナンが今抜けてきた森の方へ弓を引き構えていた。森の抜け口から馬に跨りどっと出てきた黒装束の男が、ジュナンと同じくこちらに矢を番えている。男の矢が放たれてネイサは、はっとジュナンに視線を戻した。しかし、ジュナンの矢も既に放たれている。
 空を斬って向かってきた矢を、ジュナンは矢筒から引き抜いた矢で弾き落とす。弾き落として、すぐに手にある矢を番えて放った。矢の先には、黒装束の男がいる。初めの矢が男の頭を掠り、避ける為に体勢を崩した男の胸に次の矢が刺さった。避けたはずが、確りと胸を貫く矢を視界に入れた男は目を見開くと、そのまま落馬する。
 ジュナンは既に弓を納めていた。
「終わったか」
「はい。片付けて来ます」
 答えてすぐ馬の腹を蹴り、ジュナンはこちらに背を向け森の方へ戻っていく。
「タッサン……あれらは、何者だ?」
 馬を進めようとするタッサンを制するようにネイサは口を開いた。
「我等を追う為に廟堂から遣わされた者たちだ」
「なぜ、殺したのだ」
「奴らの目的は我等の命だ。殺さねば、こちらが殺される」
「けれど……、廟堂の者がどうして、私を?」
 誰が、私を殺したがっているのだろうか。私は廟堂を逃亡したことになっているはずである。その逃亡者をわざわざ暗殺者まで寄越して殺す理由がどこにあるのだろう。
「キゼン、後で話そう」
「しかし……」
 タッサンは渋るが、自分を睨み付けるように見上げる顔に否とは言えなかった。それに、脅威は過ぎ去っている。仕方なく馬上を降り、ネイサも降ろす。
 ふらふらと歩いていくネイサの後ろを、タッサンは馬を引いてついていく。ネイサは、胸に矢が刺さり目を見開いたままの男の前まで来ると立ち止まった。
 黒装束の胸一面がどす黒い赤で染まっている。男は息をしていない。生きた者の色を失っていく顔は、見開いた目だけが作り物のようにぎらぎらと光ってネイサを射抜く。
 ネイサは思わずその目から顔を背け、手を握りしめた。横たわる黒装束の横にいたタッサンが屈んで男の目蓋に手を当て瞳を隠す。
 森の方から草を踏む音がして馬を引いたジュナンが現れた。馬の背には折り重なるように乗せられている黒装束が二人。どちらも寸分違わず胸に矢が刺さっている。ジュナンは近くにいたネイサに驚いた顔をして、それから、構わずに馬から遺体を降ろした。
 ジュナンが降ろした遺体の目は既に閉じられていた。どれも若い男で、そのどれもが絶命している。タッサンとジュナンは男達の服を探り、幾つかの折書を見つけて取り出すと、自らの懐へしまった。
「見たくなくば見なくていい」
 この場に起きていることを上手く解することが出来ていないネイサでも、タッサンの言いたいことはわかった。
 タッサンの言葉と共に一人、二人、三人、と順に息のない男達は谷底へと姿を消した。遣る瀬ない表情でじっと唇を引き結んでいるネイサの背にタッサンが手を添え「雨もそう早くは止まんだろう。窟へ行くぞ」と言った。
 雨に被り着を濡らされ、吹き付ける風に手足まで冷えてきた所で、タッサンは馬の足を遅くした。タッサンが馬を降りてネイサを下ろしたそこは、左手にある急な坂の上に木々が根を張り、右手には山腹にぽっかりと穴を開けた窟があった。窟の入り口には蔦が垂れている。後ろを離れず付いていたジュナンもすぐに馬を降りると、タッサンの馬と自分の馬をまとめて引く。
 薄暗い山間の道で、雨が降り始めたとなれば暗い窟の中は何も見えない。タッサンが窟の入り口に足を踏み入れて、石を打ち鳴らす音がすると、間もなく窟の奥にタッサンの姿がぼぅっと現れ出た。
 窟は大人四人が横に並べる程の広さがあり、奥に長く続いている。馬二頭の手綱を持ったジュナンがネイサの後から窟の中へと馬を引き連れてきた。
「キゼン。足元に気をつけて、先へ進んで」
 ジュナンに声をかけられ、入り口で立ち止まっていたネイサは窟の奥へと足を進めた。
 馬二頭が窟へ入ったその時、地響きが鳴ったのかと錯覚するような雷鳴が轟いた。奥から帰ってきたタッサンが足元に転がる木々で焚き火をおこし、近くに座るように言う。ネイサは焚き火近くの地面に膝を抱えるようにして座った。窟の地面は石で、ひんやりとしているが外で雨を含み泥濘んだ土よりかずっと具合が良い。
 窟の外では激しい風が吹き荒れ、土砂降りの雨音が窟の中へ響いてきて、焚き火の爆ぜる音も聞き取りずらい。時折雷が鳴ると窟の天井から下までごろごろと大岩が這い回っているように思えた。
「寒くはないか?」
 目を微かに細めてじっと焚き火が燃えるのを見ていたネイサにタッサンは尋ねる。
「うん」と頷いてネイサは答えた。
「雨さえ降らなければ、夜には次の村の近くにつけたのだがな。こればかりは仕方がない。止まぬ雨だ、夕餉を整えよう。キゼン、冷え切る前に服を着替えておけ」
 タッサンは手早く夕餉の支度を始める。
 窟の中はぽっかりと空いた空間になっており、わりに広い。ジュナンが窟の奥に敷いた布の上にネイサを立たせた。服を脱ぐよう言われ、裸になるとジュナンが手ぬぐいで背中を拭う。それから荷にあった新しい衣に着替える。
 焚き火の方へ戻ると、さっきよりずっと暖かい。湿り気のある服を着たままでは風邪の一つでもひいていたかもしれない。いつの間にか悴んでいた手先がじわじわと暖まってぴりぴりとした痒さに、ネイサは手を擦り合わせたり、爪で掻いてみたりした。その様子に気づいたジュナンが荷から塗り薬を出した。
「塗っておきなさい。少しましになる」
 ネイサは言われた通り、粘性の塗り薬を指につけ両の手に擦り合わせる。手は刺されたように真っ赤になっていて、相変わらず皮膚の下がぴりぴりと痒かった。
 時を待たずに夕餉は手早く出来上がる。皿に盛られたそれをネイサは掬いながら少しずつ食べた。干した白根が汁の中でふやけていて、薬膳に入っているような葉を噛むと鼻までその香りが上がってくる。あまり腹は空いていないといえど、どこか懐かしいような味の汁はすっかりと腹におさまった。
 相変わらず窟の中には外で鳴り響く雷鳴と弱まらない雨音が聞こえていた。音が余計に寒々しさを呼び起こし、ネイサは憮然とした表情で膝を抱きしめる。タッサンは馬の世話を終えて刀の手入れをしており、ジュナンは飯の片付けを終え寝床を整えていた。ジュナンの弓は窟の陰に置かれていた。あの弓が男たちの命を奪ったのだ。
「なぁ、タッサン」
 ネイサが呼びかけるとタッサンは顔を上げる。そのまま黙っているネイサにタッサンは答えた。
「キゼン、話しておくべきだろうな。聞いてくれるか」
 あの祭から逃げだして、疑問ばかりが浮かんでは膨れていくのだ。納得の行く答えは果たして得られるのか、ネイサは頷くこともなく、じっとしていた。
「廟堂は乱れている。権力を覆そうとしている者が帝一族の命を奪おうとしているのだ。権力を奪おうと企む輩が暴き出され、落ち着くまでの間ヨルガから離れねばならん。それは、わかってくれるな?」
 じゃぁ、兄上は。と口に出そうとしたネイサは、引きとどまった。今キゼンである自分に兄上はいない。もう、自分はネイサではないのだ。ネイサに戻れる頃が来たらもう一度、兄上が亡くなっていることが真実であるのか確かめにいこう。
「姉上も逃げておられるのか?」
 物心がつく頃から自分を愛でてくれたのは、兄上と姉上だけで。廟堂にいる中でも血縁と呼べる存在はその二人だけである。
「廟堂と奥後殿の体制が異なるというのはキゼンも知っているな?」
 それからタッサンは微苦笑を浮かべ、続ける。
「奥後殿の女兵達がそう易々と男どもの侵入を許すわけもなかろう。しかし、その仔細まではここへは届けられぬ。ここへ仔細が届くならばキゼンの身に危険が及んでいるということだ」
「ならば、どこまで逃げればいい」
「国の外までだ」
 国の外。
 一度たりとも出ることはないだろうと思っていた。けれど、追い立てられるだけのネイサにはもう、この国の中に安全な居場所は残っていない。
「私が戻るには、どうすればいい?」
 戻らなければならない。どうしても。兄上の後を追っているばかりで、自分は絶対に兄上には及ばないからと何もわからないふりをしていた。でも、もうそれでは進めぬ。
「まず、力をつけることだ」
 タッサンが言ってふと、その眼光を緩める。
「力を持たぬものが、数多を司った試しなど限りある天地を眺め回してもないだろう。力というのはそれ自体が鎧のようなものだ。大将は皆立派な鎧をつける、あれは力を目に表しているのだ」
「ヒョウのようなものか?」
 高名な武官の姿を思い出し名を口にする。あの虎の気迫に熊のような風体の男は一際光る、丁寧に叩き込まれた鎧を身にまとっていた。
 目を和ませ、タッサンは笑う。
「あぁ、そうだな。あのように強くなれれば、多くが掌握できるだろう。しかし力だけではならん、同じように智慧をつけることも肝要だ。その点キゼンは心配いらんだろうが」
 そういうタッサンに、心の中でネイサは心配していた。廟堂でも与えられるだけの知識をただ覚えるために身につけてきたけれど。果たしてそれが自分を、延いては自分を守ってくれる彼らを救う事になるかはわからないのだ。ネイサの知識というのは、それくらい机上のものであって、経験から得られたものではない。
 困った顔をみてとられたのか、ジュナンが口を開いた。
「大丈夫ですよ、タッサンはキゼンが驚くほど強く、生きる事についての智慧に長けている」
「はっはっは、教え子に言われるのも気恥ずかしいが……そういう事だ。お前が何か身につけたいと本気で思うのならば、俺は惜しまず全て教えよう」
 初めて、彼らが師弟の関係にあることを知った。身を守る術がないから、こうして二人の護衛をつけて国を出された。ならば、身を守る力、他を圧倒するほどの強さと智慧を持てば私が国に戻ることも、きっとできる。兄上も、強くなった自分であればきっと。
「タッサン、そしてジュナン。俺に、強さと智慧を授けて下さい」
 ネイサは言って、深々と頭を下げた。額が藁布につくのではないかというほどである。見様見真似であった。下につくものの礼儀というものをネイサは知らない。だから、これが、最上級に相手に請い願う姿勢だというのをなんとなく理解していた程度で、これが正解であるかはわからぬまま、必死に頭を下げていた。
「わかった。頭を上げよ、キゼン」
 タッサンの穏やかな声が岩室に小さく響く。ネイサが頭をあげると、タッサンは笑顔だった。
「なに、頼まれずとも元よりそのつもりなのだ。稽古は明日からだ。ひとまず、今日は休め。休める時に休むというのが一番大事なことだからな」
 翌る日、陽が昇る前にネイサは起こされた。あれ程轟々と唸っていた嵐は過ぎ去って、朝露と昨日の雨をしっとりと吸った地面がぬかるんでいるくらいだ。何かと思えばタッサンは顔を洗いにいくために起こしにきたのだという。これまで朝はジュナンが温かい布で拭ってくれていたのに、当のジュナンも姿が見当たらなかった。着替えなくていいのかと聞いたらそちらの方が動きやすいだろうからそれでいいと言われ、ネイサはタッサンの後をついていく。
 ぬかるんだ地面を越え、山脇を少し掻き分けて登っていった先に、川があった。川は白く繁吹きたっていて、川の底が透けて見えるくらい綺麗だった。底には灰や黒の石が転がっている。  横にいたタッサンがしゃがみ、川に両手を差し入れて水を掬うと、顔にかけた。同じ動作を何度か繰り返して肩にかけていた拭いで拭く。ネイサの方を見た。タッサンの視線は明らかにまだ終わっていなかったのかとでもいうようである。
 ネイサは慌てて川縁にしゃがみこむと勢いよく両手を突っ込んだ。両腕の裾を捲ることも忘れていて、水を吸った布で一気に腕まで冷えた。声もあげられないほど冷たい。歯を食いしばりながら腕を適当に捲り上げ、もう一度両の掌で盆を作るようにして冷たい水を溜めた。それから目をぎゅっと瞑り顔に手を当てた。冷たい。顔の皮膚が悲鳴を上げているように痛む。次は悲鳴がぴりぴりとした痛みに変わり段々皮膚が火照ってくる。冷たい水に突っ込んだ両の手も同じだ。冷たさが暖かさに変わっていった。
 ぱさりと頭の上に布がかけられて気づく。拭いさえ持ってきていなかったのだ。なんと滑稽なことか。顔を洗うには必須であろう。恥ずかしくて無言で布を引き下げて顔を拭いた。
「よし、戻って朝餉だ」
 顔を洗うこと一つにも上手くいかなかったネイサを咎めることもせず、むしろよくやったとでもいうような満足気な笑みを浮かべてタッサンは岩室の方へ戻っていった。
 ネイサは少し安心できた。実際、廟堂で誰かしらの悪意ある言葉には慣れていたけれど、乱暴は正直苦手だ。だから、タッサンやジュナンは戦に長けているだろうことを知ってから、彼らが乱暴者であったらどうしようかとずっと不安に思っていたのだ。けれど、昨日今日で少しずつわかってきた。彼らは智慧を持って力を用いている者たちであると。だから、びくびくと怖がるよりかは、きっと学べることを全て学び取ってしまう方が自分の糧になるはずである。
 岩室に戻ると鳥を逆さに持ったジュナンがいた。背中に箙がある。朝一の狩に出かけていたらしい。ネイサの姿を見て、くすりと笑う。
「水浴びにはもう寒いわ。風邪をひかぬうちに着替えてしまいなさい」
 獲物はだらりと首が下がって息がない。もう骨がおられているのだろう。ジュナンは鳥を近くの敷布に置き、ネイサの着替えを包みから出した。
 ほいほいと置かれた着替え一式を恐る恐るとる。今まで自分で着替えたことがなかったから、着せてくれていたものを思い出す。しかし、廟堂で着る華美な服とはまた違って簡素であるところが救いだ。  帯の結びに手こずっているとジュナンが教えながらさっさと直してくれた。足袋を履き、沓を履いて、脹脛の辺りまで布を巻いて固定する。やっと着替え終わった時にはタッサンが鳥の羽を毟り終えて綺麗に解体され、鍋で煮え立っているところであった。
 ジュナンは濡れた夜着だけ干してくれていて、昨日の乾いた服を畳んで荷にまとめていた。
 東の空に陽が姿を現した頃、ネイサ達は出立した。相変わらず山間の道を器用に馬で進んでいく。やがて見えてきたのは段々畑である。収穫の作業は今真っ最中らしく、腰を折り、手鎌を動かし、甲斐甲斐しく働くもの達の姿が見える。ずっと先には、荷をつけられた馬らしき影もあった。
 タッサンは馬の歩みを緩めると言う。
「あの奥に見える窪地が井堰だ。あそこを通って進む」
 話には聞いていたが初めて目にする井堰は非常に大きかった。田んぼがゆうに十反以上は入るだろう。その真ん中に道が通っていて枝分かれするように道が連なっている。堀になっている川瀬をのぞきこんでいる子供達もいた。何をしているのかと思えば、その背中を過ぎる時に「獲ったー」と叫ぶ声が聞こえる。
「何を獲っていたんだろう?」
 背後を気にしつつ言うと、タッサンがハハと笑った。
「小エビとりだ。秋口には美味いエビがとれてな。ここの堰は水瀬ノ疾から続く水流だから食えるものは皆美味い」
「エビなどそんな簡単にとれるのか?」
「とれるとも。目の細かい網か薄い布で掬うか追いたてるんだよ。そうすると今の時期なら両手にいっぱいはとれるだろうな。獲りたては格別だ」
「一度食べてみたい」
「一度ならずとも水瀬ノ疾へ行くまでには獲る機会もあろうさ。楽しみにしておくといい」
 タッサンの言葉に満面の笑みを浮かべたネイサは勢いよく頷いた。
 さて、堰には真ん中の道に糸を張るように細い道がいくつか通っていてその大道の中頃を過ぎた時だった。
「タッサン、います。前方に二名」
 ジュナンの低い声にネイサはハッと表情をかたくした。ジュナンの言っているのが追者だと察したのだ。しかし、ネイサにはその姿は見えない。
「奥から三つめの細道で脇にそれる。俺が引き付ける。ネイサを伴って逃げろ」
「わかりました」
 タッサンの馬に追いついたジュナンがネイサに手を伸ばす。一瞬の間に浮遊感と共にネイサは両脇を持ち上げられジュナンの馬に移っていた。
 やはりジュナンは力があるらしい。自分よりずっとだ。
 しばらくは同じ調子で進む。道には荷運びする牛車もいくつかあるし、人もいた。肩には獲りたての穂先が束ねられて揺れている。いつ動くのだろうと、ネイサの呼吸は浅くなる。肩が強張った。  農村ののどかな顔つきをした者達の中で、その二人は少し違う鋭い目をしていて、彼らがこちらを見ていることがはっきりわかるところまで近づく。追者の足が踏み出し、こちらへかけてくるその時、タッサンが馬を横にし道を塞いだ。
「大丈夫。きちんとつかまっていなさい」
 耳元でジュナンの声がするやいなや、ネイサとジュナンの乗る馬は右に逸れた。振り落とされそうになる体を必死に押さえる。疾駆する道は水の流れのように色彩が溶けて連なっていた。緑の川面を泳いでいるようだ。タッサンの馬は力強いがジュナンの馬ははやかった。
 斜め向こうに見えるタッサンは首を狙う一人を剣でいなし、こちらを追いかけようとする一人を馬上から蹴り飛ばしていた。男達の姿が見えなくなったのはすぐのことで、小径に入りぐるりとゆるく曲線を描いて走る。太陽が指先一つ移動するまでジュナンは止まらなかった。
 ようやく止まったところは清水の湧き出る木陰で、全身に汗をかいた馬は二人が降りると勢いよく水を舐め始める。ジュナンがそんな馬の体を拭いてやるのを「手伝いたい」と言ってみれば拭布をわたされて「急に後ろから拭いちゃいけない」と伝えられた。馬が驚くのだという。最初は馬の世話に没頭していたものの、だんだんと暮れて行く空に不安を覚えてネイサは尋ねた。
「タッサンは?」
「日暮れには着く約束よ。さ、先に野営の準備をしましょう」と言うと近くの枯れ枝を拾ってにこりと笑う。ネイサは枯葉と小枝を集めジュナンがさっさと大ぶりな枝を探してきては集め置いた。真っ暗になる頃汗だくのタッサンがあらわれた。片手にはダラリと首を下げた鳥を持っている。途中で討ってきたのだろう。ジュナンと用意していた焚き火にその顔がうつるや、ネイサは立ち上がり駆け寄った。
「大丈夫だった?」
「あぁ、なんともない。暗くなってしまったからこいつをうつのに少し手こずった」
 鳥を見せ笑う。
「おかえりなさい、タッサン」
「あぁ。そちらは変わりないか?」
 頷き返すジュナンに安心したらしいタッサンは焚き火のそばへ加わった。
 食事を取る前に身を清めてこいと言い渡されたタッサンとネイサは二人して冷たい清水に身を震わせていた。お互い腰巻一丁でふくらはぎまで水に浸かっているのだ。足元からどんどんと寒さは這い上ってくる。背中まで流してこいと言われてはそうしないわけにも行かず、歯の根が合わないながらも水をかけ擦ってきた。上がりしなに体を包んだ布はどんな時より暖かかったように思う。震えるネイサは震えぬタッサンに気づき純粋に首をかしげた。
「寒くなかったの?」
「何、体を鍛えるとな、寒さも耐えるるものだ。いずれそうならんとな」
 全く当たり前というように言って見せたタッサンに、ネイサは苦笑いしてみせた。
 温かな夕餉の後、タッサンは明日から鍛錬をしようと言った。ネイサは廟堂では最低限身体を動かしてはいたが座学ばかりを詰め込まれていたので少々不安ながらも教えてもらうタッサンに頭を下げた。今日はよく眠るように言付かって、ネイサは眠りにつく。
 朝は食事の前に身体を伸ばし、簡単な組手をした。剣の稽古はまだできないのでまず体を整えるのだという。剣がないのだ。仕方がないし、それにネイサは手に豆ができては潰れるあれがあまり好きではなかった。
 廟堂では書物を読むばかりで身体を動かすのは楽しいと感じなかったが、制限の無い中、廟堂と違う場所であるとちょっと心持ちも違った。
 馬達の方が朝も早いから近くの草を食んでは移動してまた食べている。一日走り詰というわけにはいかないのである。水も飲めるときに飲まねばならないし、人も食事を摂らねばならない。近くに草を食べに行かせていた馬を呼び戻し、ジュナンの元へ戻って食事をとった。乾燥した野草を戻して食べる食事にもだいぶ慣れた。美味いとは違うが味のあるものだと思うくらいには。
 堰からさらに続く山道を進む途中よく川の音が聞こえてきた。水瀬ノ疾は近いらしい。


     ■


「ヨウカ帝が薨去したと?」
 北の国ライケン領では、帝の死が伝えられた早文に静かな動揺が巻き起こっていた。
 ライケン領主クルドは顎に手を当て、書状を眺めていた。一人娘であり、次期ライケン領主であるセハは眉根を寄せる。クルドの副官シジンとセハの副官ムトの四人しかこの場にはいなかった。
「豊作の感謝祭に殺害を企てられ、経過が思わしくなく亡くなった、そうだ」
「弟がいたでしょう、ネイサだったか」
「弟も同じく刺されたそうだ」
「亡くなったの?」
「亡くなったらしいな」
「今はセン姫がおさめているのか」
「そうだな。事態の収拾には帝が必要だという話もでているらしい」
「嫡子はいないでしょう」
「あぁ。だから問題だ。それと一つ」
 クルドが木文を持っていう。
「ネイサ帝弟子は生きているらしい」
 クルドが持っているのはライケンの密偵が使う木文だ。セハはにやりと笑うと答えた。
「逃げ落ちたってこと」
「その通り。密偵の話じゃ北方に向かっている」
「ここなら他の国に出やすいからね。なるほど、少しは頭の回る奴がいたってこと……いやシンヤの差金かな」
「恐らくはネイサの近くの側近達の企てだろう。どこまでが関わっているかは知らんがな」
「で、うち(ライケン領)はどうするの?」
「秘密裏に通す。危害は加えん」
「わかった。いいね、ムト」
「かしこまりました」
「帝子はおそらくここにくるだろうしなぁ、旅の補充でも整えてやろうか。よろしいですか、クルド様」
「構わん。そうしてくれ」
 クルドはそう言うと、木文を真っ二つに折り、暖炉に投げ入れた。木文はぱちぱちと燃え爆ぜる。
 これで話は終わりだと、セハはクルドの私室を出た。
 さて、少し一仕事してやろうと、ライケンのじゃじゃ馬娘は考えていた。ここでは誰にも知れ渡るほどセハは多くの珍事をやらかしている。小さな時はよく屋敷を抜け出していたから、ライケンの者には顔が広い。大人になっても、ほぼ毎日屋敷から出て領内で狩をしたりはたまた農作物の収穫を手伝っていたりするから、領内では親しみをこめてじゃじゃ馬娘と呼ばれているのだった。
 屋敷の廊下を歩きながらセハは言った。
「よし、ムト、少し遠出をしようじゃあないか」
「また何かお考えですか」
「クルドには言わないで出よう」
「お怒りになられますよ」
「大丈夫さ」
 クルドから叱言を向けられるのはいつもムトなのである。それでもついていこうと思える人物がセハだった。不思議と人を惹きつける何かを持っているのだ。
 セハは腰にベルトを巻き、簡単に荷物を整えると軽々と自室の窓から木に飛び移り抜け出した。ついていくムトも同じだ。この木は小さい頃からセハが抜け出すのを手伝っていた。まかり間違って正面の玄関からは抜け出さないのがセハである。
 ライケンには一足早い冬が迫っていた。朝には霜も降りるし、夜は凍える。暖かな羽織を被ったセハは厩を過ぎて徒歩で屋敷の塀を乗り越えて出ていく。数人の兵士にも見つからない程彼女は抜け出す事に長けていた。
「どこにいくんです?」
「南だよ」
「南?」
 セハの突飛な行動には慣れているものの、彼女の考えまでは読めないのがムトだ。仕方ないとついていくしかない。
「二晩かかるかな」
「二晩って……また遠出ですね」
「だから遠出っていっただろう」
「えぇ、そうでした」
 領内の南へ繋がる田圃道をのんびり歩くセハを追いつつ、ムトは領主に報告しなかったことを少し悔やんだ。セハの脱走癖は昔からだが、もうすぐ領主を預かる身なのだからもう少し自重してほしい。  途中で兎を討って夕食にした。武にも長けるセハといると食事には困らないのである。ムトも出来ない訳でなく鍛えられているが、言うより早いかセハの行動が先なのだ。
 焚火の炎がセハの顔を橙色に照らす。
「それで今回の目的はなんなんです」
「なんだと思う?」
「まさか兎狩りな訳もないでしょうし……」
「ないね」
「帝弟子とか」
 まさかな、と思って言った言葉に後悔したのは何度目か。
「大当たり」
「嘘でしょう」
「嘘じゃないって」
「帝弟子探してどうするんです」
「どうしようねぇ。とりあえず宝探しでもしようかなと」
「宝探しって……、遊びじゃないんですよ」
「何事も楽しくないと。ねぇムト」
「仕事でもないですし」
「仕事じゃないからこそやるんだよ」
「そう言う人でしたね、えぇ」
「よくわかってるじゃないか。命辛々逃げ延びた帝子を保護。どうだろう?」
 面倒事を持ち込まないでほしい、というのが本音である。
「いいんじゃないですか」
「じゃそういうことで、明日はまた早いからね。おやすみ」
 仮小屋の中で毛皮の羽織に包まったセハは早速寝息を立てる。ムトも火の始末をすると仮小屋に潜り込んだ。冬の寒さは深々と音を立てて忍び寄っている。帝弟子はどこでこれを過ごしているのだろうか。一度か二度しか相見えなかった小さな御姿を思い小さくため息を吐く。ライケンの密偵を疑ぐる訳ではないが、あの戦慣れもしていない帝子がここまで逃げ延びてこれるとは信じられない気持ちの方が強い。あれで、どう逃げるというのだ。まだこのじゃじゃ馬娘の方が悪運が強そうである。
 翌朝、仮小屋を壊してさらに南に進む事になった。セハは道中花を摘んで蜜を吸ってみたりとまるで子供と変わらない。歩く姿は武人のそれであるというのに。
「誰がついているんでしょうね」
 赤子のような帝子に、という意味であった。
「そりゃ影の者じゃない? 私も顔は見たことないけどね」
「影の者、ですか」
 実しやかに囁かれる噂に、ヨルガ国の帝一族には影の者が付いているという話がある。それが手足となって国々の情勢をつかんでいるのだ。一切姿を見せぬから、それが本当にいるのかは末端の者はもちろん、立場が上でもよく知らない。
「じゃなきゃ逃げられんだろうさ。国からなんてね」
「国から?」
「追われてるんだろうよ」
「誰にです」
「そりゃ謀叛人?」
「……やっぱいるんですかねぇ」
 ムトとすれば、勘弁してほしいものである。落ち着いていた国を脅かすのは。ライケンはヨルガの中枢から離れているものの兵士は多く出しているから、余波は大きいだろう。セハ付きの副官を命じられてから後、ヨルガの廟堂にいったことなどないが、帝と帝子が死んだと報ぜられて揺るぐのはヨルガそのものだ。
「だって殺されたんだし、いるでしょう」
「いますでしょうね」
「ま、そういうこと。宝探しは慎重に、だ」
 二晩目も鍋を囲んで、眠りに着く。次の日はついに、領の境まできていた。
「水瀬ノ疾も近くですね」
「そうだな」
「どこまでいくつもりですか」
「もうすぐだよ」
「もうすぐ?」
「会えるだろうさ」
 謎めく言葉だがこの人のことだ、帝子にでも、というのだろう。
 水瀬ノ疾は名に水瀬とあるだけあって、流れの速い大きな川がある。ここを越えるとライケン領だが、特に道中に関もなく、通り抜けが可能だった。こちら側から通り抜けしようとする者は少ない。それもそのはず、道は険しく、川の流れは速い。あっという間に井堰まで流されるのが関の山である。笑い事ではなく。
 けれどそんな場所を通ろうという奇特なものもいるにはいて、ライケン領ではそんな者の検閲もしていた。大体がひと騒動起こして強制送還されたり収容されたりする。そんなこんなだからライケンは強者ばかり増えていくのである。
「おーおー、今日も流れが速いね」
「冬でも凍りませんからね」
「流石だ。冷たいし」
 ちろっと指を伸ばして水を掬ったセハは手を振って言った。
「さてと」
 縄を取り出したセハはそれを木に巻きつけると手に持ち、ひとっ飛びで川を越えた。自分にもそれを促す。ムトも仕方なく川を越える。川幅ぎりぎりを跳んだ。
 縄は端をこちら側の木に結びつけていた。ちょうど掴んで川を越えられるようになっている。
「ここから先は領外ですよ」
 暗に勝手をするなと釘を刺すムトの言葉はどこ吹く風といった表情でセハはうんうんと頷いた。絶対わかっていないことだけはわかる。
 川沿いをしばらく歩いて山道に向かったところでうめき声がした。
「ジュナン、ジュナン、大丈夫か」
「っ、逃げてキゼン」
 セハに釣られて覗いてみれば、修羅場であった。一人の少年が女に縋っている、これに向かって来ようとしている男一人。明らかに平民ではない。なりこそ平民であれ、剣は折られていた。折れた剣の柄を持ち、少年に向かって来ようとしている。出て行こうとするムトを止めたのは笑みを浮かべたセハだった。
 男が向かってくるのに対し、少年はジュナンと呼ばれた女から離れる。男の向きが変わった。標的は少年であるらしい。
 向かってくる男を上手く躱しながら、少年は眉根を詰めて、ぎしりと歯噛みしていた。どう切り抜けるか必死に考えているのだろう。
 男には折れた直剣。対する少年は丸腰である。どう見ても劣勢であった。
 男が何度目か、少年に向かっていく。いよいよ駄目かと思われたその時、少年は何かに気づいたように倒れ臥す女の後ろに走り、男が走りこんでくるのを待っていた。
 男は少年の意図に気づかずそのまま走りこむ。少年はぐっと身を翻すと、男の背後をとり、そのまま首に鏃を突き刺した。男は絶命する。少年は肩で息をしていた。倒れ込んだ男から身を引き、ぐっと下を向いている。
 ムトは初めて人を殺めた時のことを思い出した。
 あれも男だった。腹に突き刺した剣を引き抜いたら、暫くがくがくと口を開いてから動かなくなった。侵入者だったから、仕方なかった。けれど、殺さなくてもよかった。だから、心中では酷く狼狽していた。仕方ないことだったけれど、仕方ないと片付けられないのが人間である。暫く呆然としたのを覚えている。
 そんな自分の姿に少年は酷く似ていた。
 やがて、少年はジュナンの方へ行き、ジュナンを揺する。が、女は気絶しているのか、起きなかった。腹にも負傷があり、血が流れだしている。少年の体躯には大きすぎるジュナンを半ば引き摺るように背負って、少年は歩き出した。川の方へ。つまりこちらへ。
「お宝みーつけた」
「何いってるんです」
「何ってお宝さ」
 馬が走ってくる音がして、少年も気づいたのかジュナンを引き摺って木陰に身を寄せる。
 一頭は男が乗った馬で、もう一頭は無人の馬だった。二頭を器用に動かして男は勢い込んで走ってくる。木陰から首を出した少年はパッと顔を輝かせて、声を張り上げた。
「タッサン!」
 馬を止め、タッサンは下馬する。
「無事だったかキゼン」
「ジュナンが」
「何かあったのか」
「怪我を!」
 木陰に倒れ臥すジュナンに近寄りタッサンは外傷を確かめた。息は安定している。
「倒れるときなにがあった?」
「剣を受けたんだ、僕を庇って。それから頭を殴られて」
「……容体が悪くならねば半刻もすれば目も覚めよう。腹の手当ては急ぐぞ」
 言いながらもタッサンは布をジュナンの腹に当てぐっと縛った。
「本当に? 目がさめるの?」
「本当だ」
「よかっ、よかった……」
 うるうると瞳を震わせたキゼンはぐっと腕でそれを拭い、ジュナンを馬に乗せるのを手伝った。
「これから川だ。キゼンは一人で乗ってくれ。俺はジュナンを支えて渡る」
「わかった」
「よし、いくぞ」
 隠れているこちらには気づかず三人は進んでいく。二頭の馬が冷たい水に足を踏み入れ、川を渡った。
 セハは先程の絶命した男の元へ歩いていく。民装束に、折れた直剣。胸元、腰、足首のあたりを探るがとくに収穫はなかった。首に刺さる矢を引き抜くと鉄臭いにおいが一面に広がる。セハは矢を持ったまま男を木陰に引き摺り込むと開いていた男の目を閉じた。道中に死人がいるよりは木陰のほうがましである。
 歩いて戻ってきたセハはムトの肩をつつき「戻る」と一言告げた。
 そのまま縄を張った方へ戻った。最初に渡れと言われたのでムトは腕の力で綱を渡る。その後セハが結んでいた縄の先を引っ張って縄と共にこちら岸まで跳んできた。セハは身軽である。
「追いかけようか」
「馬ですよ」
「負傷者がいるからそんな早くないでしょ」
「そうですかね、あの男の方、タッサンでしたか。馬術も武術も長けてそうですけど」
「影の者なんだろうねぇ、あれが」
「あれが?!」
「それ以外のなんだっていうの」
「あ、いやぁ、そうか」
「だからあの倒れた女もそうだ。こんな矢飛ばせる大女中々いないよ」
 矢は基本的にその人の腕の長さを使うから、必然的に身体が大きければ大きな矢になる。たまに腕の短い者もいるがそこは除こう。この矢はセハの腕には余った。ムトでもやっとだろう。ぐったりと倒れている姿しか見ていないから定かではないが、恐らくかなり背丈があって、手足も長いはずだ、とセハは判断していた。
「得手が特出した人の集まりってことか、影の者は」
「だろうね。それでいて市井に紛れられる存在。その中でもあの二人は信頼されているから今回の任を任されたんだろう」
「帝からですか?」
「さぁ、どうだか」
「違うのかぁ」
 セハがはぐらかそうとする時は大体自分の言った案が間違っていることのほうが多いムトは誰が指示したのか必死に考えたが、廟堂の人物関係を知らない自分にははなから無理な話であったことを思い知る。
 縄を回収したセハと共にライケン領への道を戻る。時刻は夕刻だった。日暮れも間近。随分薄着に見えた少年だが凍えてはいないだろうか。ライケンの冬など知らぬだろう少年が心配になった。
 途中で兎を討ち、耳を掴んだまま進んでいくセハが突然駆けはじめる。何かと思えば焚き火を囲む二人と、寝かせられている一人がいる。そこへセハは向かったのだ。
「火、お借りできますかね」
 兎を片手ににっこりとセハは笑った。
「構わんが。良ければそれも共に煮よう」
「ぜひ」
「ハイネといいます。こちらはトム」
「タッサンだ、こちらに寝ているのがジュナン、それでこちらがキゼン」
 あっという間にセハは火の輪に座した。
「よろしく。ハイネさんトムさん」
「よろしくキゼン」
 唐突に使われる偽名はセハが城下に行くとよく使っている名前である。ムトの方は偽名ともいえぬ偽名でもちろんこれはセハに名付けられた。
 兎をぱっぱと捌きセハは鍋の具として投入する。ふつふつと音をたてて煮える鍋からは香草と兎肉の香りが唾きを溢れさせた。キゼンは相変わらず調子が良くなさそうだ。挨拶を終えるとジュナンの近くに座り込んだまま、じっと炎の揺れを見ていた。
 セハはまだ先程の矢を隠したままだ。何がしたいのかわからないが何かしたいのだろう。
「お三方は旅人で?」
「あぁ。北の方から西に回ろうと思ってな」
「へぇ。随分と長旅になりそうですねぇ」
「まだ旅に慣れていないものもいるから、苦労はするが、その分実りも多いよ」
「誰しも初めてってありますからね」
 言葉を切って思い出したようにセハは笑って膝を叩いた。
「私はよく歩き回っていたけど、初めて遠出をしたのはちょうどキゼンの歳の頃だったかなぁ。今いくつ?」
「十三」
「うんうん、ちょうどその頃だ」
「どこへ旅に出たの?」
 珍しくネイサが顔をあげて尋ねる。
「北の更に北だよ」
「何があるんですか」
「それは美しい光の絨毯がね、空に浮かぶんだ」
「光の絨毯?」
「数色の光の帯が、霜の立つように空から降って、ゆらゆら揺れて、消えるんだ」
「すごい……、きっときれいなんだろうね」
「そりゃぁ綺麗さ」
 ムトも付き合わされたことを思い出す。彼女の遠出に付き合わされたのはあれが初めてだったが、初めてだからこそよく覚えている。とても美しかった。
「さて、皆このまま眠るのもいいけれど、もう少し暖かい方が良くはないかい」
 セハが食事を終えた面々を見渡していう。
「一宿一飯の恩ということで、今回は私とトムで作るからちょっと待っていておくれ」
「何を作るの?」
「仮小屋だよ」
「僕も見ていていい?」
「構わない。適当な木の枝を集めてくれると嬉しいな」
 セハの言葉どおり、集めてきた木の枝は立派な仮小屋へと変貌を遂げた。上は葉のついた木々で、大きめの木が何本か柱になって木の葉に覆われている。すぐにできて、すぐに壊せるのが利点であった。
「さぁ寝た寝た」と言われ、ネイサは床につく。いつもより屋根があるだけ、どこか安心できた。
 夜半。タッサンはジュナンが目覚めたのに気づき、起き上がる。そのまま小屋の外へ行こうとするジュナンについていき、外で声をかけた。
「体調は」
「も、申し訳ありません。私が力及ばず」
「いい。大丈夫だ。キゼンは強く生き延びた。だから何も問題はない」
「はい」
「それよりお前、体調だ」
「随分すっきりした目覚めです。腹の傷以外は」
「あぁ、頭を殴られたんだから少し安静にしておいたんだが。腹の傷が癒えるまでは無理をするな」
「はい。ご迷惑をおかけしました」
「いや、構わん。これからもキゼンのことを気遣ってやってくれ」
「もちろんです。そういえば、一人いた追者は、どうなったのです」
「キゼンが殺した。あちらも、早駆けで仕留めようとは思っていない。」
「逃げ時なら今ですね」
「関のある全ての村に書状は送られているはずだ。だが関さえ超えればヨルガは関与しなくなる」
「ならば、やはりライケンには寄った方が良いと思ったのだ」
「ライケンにくるんですか?」
 答えたのはうっすらと額に汗を浮かべ乱暴に腕に巻き付けてある布で顔を拭ったセハである。突然木の陰から現れたセハと鍛錬に付き合わさせられていたムトの二人にジュナンとタッサンは少し構えた。
「こんな時間に鍛錬ですか」
「眠れなくて素振りを三百ほど」
「なるほど、武人とお見受けするが」
 タッサンの問にセハは両掌を上に向け小首をかしげると答えた。
「こんななりですが一応武人です。お二方もそうでしょう? 一介の旅人にしては戦いに流暢だし、死体に動揺しない。それに長物の扱いに長けていらっしゃる」
「よくみておられるな。ライケン領主の一人娘、セハ殿」
 タッサンの言葉に驚いたのは共にいたムトだった。なんだって見破られたというのか。
「いや、一度こちらの国に視察に来た時にじゃじゃ馬娘との評判名高いあなたが畑仕事を手伝っているのを見てな。大きくなりましたな」
「もしかして、行商のおっちゃんのタッサン?」
「よくおぼえていたな」
「覚えているさ。その時はこのジュナンさんはいなかったみたいだけど」
 ジュナンの方を向いて言う。
「私が拾われるより前の話なのでしょう」
「なるほどね。いやぁしかしタッサン、わかっていたならはじめから呼んでくれればよかったのに」
「偽名を名乗りだしたから、乗ってみたまでだ」
「そうだよねぇ……」
 愉快そうにけらけらと笑うセハに、苦笑してみせたのはタッサンとジュナンである。いまいちどう扱ったらよいか考えあぐねているらしい。