ASiGaRu



 人の塵でごった返している地区で呼び込みをする男がいた。
「安いよ、安くするよー、隣より五百貫安くするよ! ちゃんと値切っとくれ」
 精悍な顔つきの男の名はタイゼンという。この名だけで得をしてきたと言っても過言ではない。建国神話のキゼンとタイゼンといったら有名である。赤子から老人まで知っている話だ。
 創士帝イシクの子供であり、ヌシを打ち倒した兄弟の名で、縁起が良いとされる。だからヨルガから離れたここでもその名は好まれていた。
「タイゼンが売る装飾具だ、物がいいよ!」
 道を通る女や子供が見にきて共に歩く男にねだる。そんな様子をにこにこと見ながら、値切りに対応しては物を売りさばくタイゼンは行商を生業としているように見える。が、その実今日は友人に頼まれてこの仕事を引き受けているだけだった。
 普段は物の修繕を請け負ったり畑を手伝ったりして日銭を稼いで生きていた。
「タイゼン今日はもうそろそろしまおう」
 人も散り散りになってきた市場から歩いてきた親父がタイゼンに声をかけた。
「おう、体調は大丈夫か?」
「あぁお陰様で」
「じゃぁ店じまいだ」
 タイゼンと親父は店仕舞いの支度を始める。大きめの袋に商品を詰めて片付けるのだ。最後に露店ののれんを片付けると曇り空の下、家への道を歩きはじめた。
 途中途中、タイゼンは友人の店で足を止める。
「ようタイゼン、今日は早いな」
「ちょっとな」
 そこは菓子屋だった。菓子は午前より午後売れるから、セラウの店は今からが稼ぎ時なのだ。たまにタイゼンも手伝いに来るから午後の混み様は手に取るようにわかった。
「今日は早くに混みそうなんだ」
「そうだな、雨が降りそうだ」
 山向から雨雲が来ている。
「ま、お前んとこの菓子は人気だから、売れるだろうよ」
「そうだといいんだが、余ったらサゼムのとこに持っていくから時間があれば寄ってくれよ」
「わかった、雨が振ったら寄るよ。じゃあな」
 ひらりと掌を上げてタイゼンはセラウと別れた。サゼムというのは茶屋の息子である。セラウはサゼムの所へ茶菓子と称して菓子を卸しているのだ。
 昼時の飯屋に皆が入っていく中、タイゼンと親父は家についた。茅葺きの小さな一軒家である。室は三間。そのうち一つをタイゼンは親父に間借りしていた。タイゼンの間借りしている室は明かり採り窓の無い室だった。昼でも暗い室に辛うじて空気孔からくる柔らかな光で、日中は過ごしている。これにももう慣れた。この室がいいとはタイゼンが言った言葉だった。
 板敷きの床に筵が敷かれている。タイゼンの万年床だった。月に一度くらいは筵を干しに出すが、朝な夕なと時を決めずに働きにでるタイゼンは眠る時間が定まっていないから休める時にはこれに横になって眠るのだ。
 タイゼンと親父は食事を一日二回とる。帰ってきたタイゼンは文机の前に胡座をかいて、溜まった伝書の整理をしはじめた。
 あちらこちらで仕事を手伝っているタイゼンにはお礼の文やら賃金を取りに来てくれという文、また仕事を頼みたいという文が来るのだ。だから毎日の確認はタイゼンの日課になっていた。
 今日も新しい伝書がきていて、タイゼンはそれを読みつつ思わず目を見開いた。
 それはサゼムからの文だった。

 ”タイゼン元気にやっているようだとは仲間から聞いている。文を認めたのは他でもない、話があるからだ。
 最近ヨルガの帝が亡くなったのは知っているだろう。あれのせいでエラウにも乱れがおきている。友達の友達の話だから本当だ。私はこの国を失いたくないと思う。だから戦う準備を整えているんだ。お前はどうする。
 お前のことだから、きっとはっきりした返事は来ないだろうと思って文にした。もし気になるならいつでも私のところに来てくれ。
 サゼム”

 サゼムは物静かな風体の男だ。切れ長の目の奥はいつも静かな瞳が据えられている。茶屋の一人息子として毎日よく働いていた。時々、思い切ったことを言うけれど、いつも考えて喋っているのがわかる要領の良い奴だ。その男が、突然戦の準備をしているなど、タイゼンが驚くのも無理なかった。
 ヨルガが今喪に服しているのは知っている。帝が死んだのだ。国を挙げて喪に服していた。だが、同時に戦をし続けていることも知っている。ヨルガはいつも戦をしている。かつてエラウもその標的になったことがあった。親父の代ならちょうどその頃だ。親父も戦に参じたことはあると聞いた。詳しくは話してくれないが。エラウは国の一部をヨルガに渡し、通商についても一部条件を整えることで全てを乗っ取られることを免れたのである。
 だから、狙うとなればまた狙ってくるだろうことは国の者には知れていた。いくら協定を結んで国を脅かさないといっても、それはヨルガにとって建前であるのだ。いくらでも覆してくる。それでやっていけているのがヨルガの強さだった。過去からの前例があるから仕方ないとはいえ、ヨルガはいつも恐れられる対象だ。
 サゼムが言いたいのはつまりエラウの未来を憂いているということだろう。
 タイゼンは損得で物を考える傾向があった。
 出来るならば平穏に、安穏と暮らしていたいし、今の生活が気に入っている。エラウを逃れても自分はこうして生きていけるだろうという自信もある。けれど周囲は変わってしまう。サゼムも、変わろうとしている。
 気が短くてすぐに諍い事を起すカラヤとは違ってサゼムはこんなことはしないと思っていた。けれどあの瞳の奥にはこんな本音が隠されていたのだ。火種が燃え上がったと言うべきか。
 はっきりした返事はしない。仕事以外のタイゼンはそうだった。
 のらりくらりと交わしてすり抜けていくような奴だと自負している。どっちつかずというわけではない。損得を考えて行動するのだ。
 幸い今日は午後の手伝いはない。雨が降ったらサゼムの茶屋にでも顔を出してみるかとおもいながらタイゼンは筵に寝転がった。
 雨が地面を叩く音がして、タイゼンは目覚めた。
 本当に雨が降ってきたようだ。ザァっと風が吹く音もする。掛布をとり、起き上がって欠伸をした。上に一枚羽織ると、タイゼンは親父に一声かけて外に出た。
 雨は小降りだった。それでも雨傘をばさりと広げ、タイゼンはサゼムの茶屋に向かうことにした。
 タイゼンは戦を経験したことはない。だから同じ世代のものもそうである。いまいち戦と言ってもピンとこない。戦に出ようとする気持ちはわからないでもない。だが、ヨルガに仕掛けて果たして勝てるのだろうか。何をもって勝利とするのか、タイゼンには疑問だった。
 雨傘に雨粒があたる。骨を伝って傘から雨が落ちていく。
 タイゼンにとって生きるとはそういうことだった。流れに沿って、いつのまにかどこかへ着いているのだ。水が流れていくような、流動体が自分である。どこにでも入り込めるけれど、どこかで堰き止められることもある。主体というものが不完全だ。タイゼンの主体はそれでいて、損得という観念にあった。
 金銭勘定はわかりやすい。対価によって得られるものがある。だからタイゼンは仕事が好きだった。誰かの手伝いをしながら生計を立てていくのが一生の自分であると思っていた。
 その自分が戦争?
 全く思ってもみなかった。水の中に墨が落とされたような気分だ。どんどんと思考は犯され、墨は広がり、否応無く馴染んでいく。
 剣の腕前はそれなりだと思う。だが、訓練された兵士のように単純に人を殺すことは考えられない。それが得をするならやってやろうと思うが、果たして命を奪うことに得はあるのだろうか。
 ひいてはそれが、エラウを守るためだとサゼムは言う。
 エラウはタイゼンの故郷だ。
 元々は父母と弟と住んでいた。けれど、ヨルガの侵攻に際してエラウは火の海になったのだ。
「母さん‼︎ 母さん‼︎」
 必死に呼ぶが、腹に当てた手は血に染まり、ドロドロと出てくる血は止まることがなかった。
「タイ、ゼ……にげて」
 村までヨルガの兵が来ていた。
 父は兵隊として兵役について今はいない、生きているのかもわからない。母と弟と二人で暮らしていたその家に、戦火が飛び火したのである。
「母さん!!」
 母は息をしていなかった。母を置いて逃げるしかなかった。家は崩れてきている。
 家を出て崩れ行く町を走る。どこへ逃げればいいかもわからない。ただ火のないところに逃げるのだ。
 鴨居が落ちる。火の海に飛び込んでしまったような気がした。暗い夜の中にタイゼンは走った。
 あの時のことは一生忘れたりはしない。忘れることは出来なかった。家の鴨居に挟まれて死んだ弟のことも。
 だから、憎いといえば憎いのだ。どうしようもないから、怒りを押し殺すしかなかった。けれど押し殺した感情はそのまま底流していて、やり場のない感情に毎日苦悩もしていた。どうしようもないというのは、一番救いのない言葉だ。
 ヨルガは憎い。そうだ、家族を奪ったヨルガが憎くないはずはなかった。
 忘れていたのだろうか。憎むという感情を。憎むなど無駄なことだという言葉に、押し殺し続けていた感情が否と言う。自分は忘れてはいなかった。あの悲しみを、苦しみを。父親は戦に連れ去られた。母親は戦火に巻かれた。弟は鴨居に潰された。
 これを憎いと言わず何というか。
 ならば、今のタイゼンにとってはサゼムの誘いに乗るのも手かと思われた。
 損をする戦ではない。心にけじめをつける戦だ。ならばきっと、それが一番いいのだ。
 サゼムの茶屋についたタイゼンは雨傘を閉じると、店に入った。
 店の奥に通される。そこではおなじみの顔ぶれが茶を飲み菓子を頬張っていた。
 座敷のようになっている店の奥から皆がこちらを向く。
「よぉタイゼン、早かったな」
「そうでもないさ」
 昔のことを思い出して少し陰気になっていた顔を吹き払うようにタイゼンは笑みを浮かべた。
 タイゼンの出迎え一番に声をかけたのはストヲだった。彼はこの仲間内の中では一際背が高く、実家が薬屋であるのも手伝って薬の調合なら一丁前である。
「俺は遅いって思ってたとこだよ」
 そう声をあげたのは赤い長髪を括りあげたカラヤだ。タイゼンと同じ歳で短気だが根は良いやつだ。
「お前は短気だから」
「なんだよ短気って」
「そのままの意味だ」
 カラヤは軽くタイゼンを叩く。タイゼンは笑っていなした。
「仕事は? 終わったのか?」
 七人がついてた卓にタイゼンも加わる。ストヲが言った。
「あぁ、午前いっぱいで終いだ。今日は他にはねえな」
「ならよかった。ゆっくり話ができるな」
「サゼムから聞いているんだろう」
 人一倍頭の切れるキルゲが言う。その通りである。文を貰っていた。
「あぁ、まぁ少しな。で、実際どうなんだ。本当に事を起す気なのか」
 やんわりとした口調で切り出したタイゼンに皆の表情も変わる。
「俺はその気で皆を集めたんだけどね」
 張本人のサゼムはその気らしい。
「後は皆の意思確認ってとこかな」
「ならその皆はどうだ」
 一人ひとりの顔を見ながら聞くと意思の固まった顔とまだ悩んでいるのだろう顔が見受けられる。戦をおこすというのはそれなりに覚悟がいることである。叛乱軍までのし上がれればいいが、そうでない場合はただ風紀を乱すそこら辺の山賊と同じになってしまうからだ。
「俺はその気で来たぜ」
 まず声をあげたのはカラヤだった。
「お前はだろうと思ったよ」
「わかってるねぇタイゼンは」
「カラヤのことだからな。無駄な話には乗らないだろ」
「俺は、自分の力が役立つならと思って来た」
 口を開いたのはトグだ。剣が随一に上手く扱える男である。
「僕も同じかな。弓の腕が役に立つならと思ってね」
 キラヤが言う。この中で唯一弓を扱える人物であった。
 エラウでは男になった証として、男児には剣を与えるという慣習があった。キラヤはこの慣習に当てはまり、剣も使えるが、それ以上に弓が好きで弓の腕ばかりを上達させていったのである。
「セラウはどうするんだ?」
 タイゼンが話を振ったセラウは、これといった特技として字が綺麗ということしか思い浮かばない人物ではあった。内気な彼がここにいることにタイゼンは少し違和感を感じていはいた。
 セラウは少し困ったように苦笑して、気弱そうなその眉根を寄せ答えた。
「俺は……、何か助けになれたらと思って。皆みたいに何かができるってわけではないけど、頭数は少ないより多い方がいいだろ?」
 そうサゼムに問いかける。
「そうだね。それに、どこかに文を認める時なんかセラウの字で書いてもらえば説得力も上がるだろうし」
「俺らみたいな汚い字よりはよほどいいさ」
 キルゲが同意した。そう、キルゲを除いて皆学術の方には疎いものが多い。戦をおこすにもどこかと同盟を組む必要も出てくるだろう。そんな時に役立つのがセラウである。
「だから、皆に加わるよ、俺は」
 キルゲは自分に言い聞かせるように頷きながら言った。本心では逃げ出してしまいたいくらい不安だし、これがうまくいくという勝算も無いのに何故彼等はこれほど落ち着いていられるのかと思っているのだが。
「俺は怪我人を見る役として加わるよ」
 ストヲが言った。
「ありがたいよ、ストヲ。お前の治療術は役立つ」
 サゼムが答える。キルゲが頷いて笑った。
「ストヲがいなきゃ俺たち行き倒れちまうだろうからな」
「ははっその通りだ」
 タイゼンは笑う。これから叛乱を起こそうなどと考えているようには思えない和やかさだった。
 奥の間には鉢の暖かさが充満している。空気取りから入ってくる寒い風などものともしない暖かさである。
 タイゼンははて、と考えはじめた。
 自分はこのまま叛乱軍になるために国を出てもいいのだろうか。彼等に流されるまま生きていくことが良いと言えるだろうか。タイゼンには育ての親である親父もいる。親父はそれなりに高齢である。親父一人で置いていくのは忍びない所もあった。
 なら、何故自分は国を出ようとしているのか。
 国を守るためである。
 誰も庇護してくれる保証が無いから立ち向かうのだ。
 現状、このエラウを守ってくれる存在など無いのだ。エラウには特筆した戦士団も無いし、ただ商業で発展している町なのだから。商業団はあるし協定もあるがそれは自由に貿易が可能になるような協定ばかりであって、エラウを守るものでは決して無い。エラウは無防備なのである。
 戦士団を作るという話も無い。だからこそ、サゼムは今やるしかないと言ったのだろう。
「それで、どうするんだタイゼンは」
 話を振られたタイゼンは思考から意識を戻す。
 ここでもし否と答えたとしよう。それでも彼等はやり遂げるだろう。例え叛逆軍にもなりきれない小者として終わったとしても。
 ここでもし是と答えたとしよう。そうして共に国を出て旅をする。叛逆の意思を持つ者を集めるために。小者で終わる末路ももちろんあるはずだ。それでも、そうだとしても、エラウを守る意思は堅い。守るよりも先に、タイゼンの心の内に燻るのはヨルガへの恨みと憎しみだった。弟が、両親が、何故死ななければならなかったのか。兵として戦った父を除いて、他はただの一般市民だったのだ。それがどうして、死ななければならなかった。
 あの時、助けられなかった自分がいた。
 鴨居の下敷きになった弟を引っ張り出さずに逃げ出した自分がいた。母親の行方は依然として知れない。
「やろう。俺は何でも屋だから、何でも引き受ける」
「その言葉を待ってたよ」
 サゼムがしたり顔で言う。
「で、俺には何を任せたいんだ」
 自分は何かに特筆秀でているという訳ではない。かといって全てが苦手な訳でもない。平均以上にはできる程度である。
「タイゼンには仲間探しをしてもらいたい」
「仲間探し?」
「目星はつけてあるからその交渉人といえばいいかな。お前程口の上手いやつは他にいない」
 万条一致だった。皆が頷く。
「タイゼンなら黒も白に変えられるだろうしな」
 キルゲが悪い笑みを浮かべながら言う。
「俺は詐欺師じゃねーんだから、流石にそこまでは無理だぜ」
「いっつも客に売ってる商品は手間賃以上取ってるやつが何言ってるんだか」
「だから、俺を悪徳商人かなにかと勘違いしてるだろお前ら」
 尚も食い下がるキルゲに呆れ気味にタイゼンは返す。
「商才の有るやつは人の心を掴むのが上手い、だろ?」
 カラヤが得意げに言い放つ。
「そうそう。だからこれはタイゼンにしか任せられないんだよ」
 サゼムが結ぶ。
「どう? やる気にはなった?」
「……しゃーねーな。やるよ。それが必要だってんならな」
「決まりだね」
 サゼムは頷きにっこりと笑みを浮かべる。細く透き通った目が全員を見た。
「出発は七日後くらいにしようと思う。まずそれぞれ家にはそれとなく事情を通してくれ。旅に出るとでも言ったらいい。それから七日後、ここを出発して西方のエザログに行く。僕の知り合いがいるからそこでまず情報を集めるんだ」
「そのエザログにいる知り合いの仕事は?」
 キルゲが聞く。
「鷹飼だよ」
「鷹飼? そりゃまた珍しいな」
「あっちではそれなりに幅をきかせていてね、運び屋なんかもやってる。だから情報には利がある」
「なら問題なさそうだな、ひとまずの拠点とするってことか?」
「そのつもりだよ。あちらも了承済みだし、むしろこちらの事に興味があるようだったから仲間として引き入れられるかもしれない」
「そこでタイゼンの出番ってことか」
 カラヤがタイゼンを見ながら話を振ってくる。
「知り合いならサゼムの方が適任なんじゃないのか」
「いや、知り合いだからこそ少し頼みにくい所がある。タイゼンにお願いするよ」
「そうか……」
 タイゼンは引き入れろと言われたもののどうしたものかと考えあぐねていた。鷹飼をしているのはサゼムの親戚だと聞いたことがある。その親戚を仲間に引き入れる、か。
 冷静に行かねばならない。温度差のある相手に一方的な感情をぶつけたとて、それはただ怒鳴っているのと同じである。こういう時はまず相手の場所まで降りねばならない。それから歩み寄るのだ。
「ま、なんとかやるよ」
 タイゼンはいつも通り結ぶと、へらりと笑って見せた。
 その笑顔には皆が安堵するという不思議な安心感があるのだ。タイゼンもそれをわかっていてそんな表情をしていた。
 仕入れに行っていたらしいサゼムの両親が軒で傘を閉じる音がした。
「あらあら、皆きてたのね? サゼムが言ってくれなかったから皆の分までご飯の支度できてないわ」
「お構いなく。晩飯時には帰りますから」
 キルゲが真っ先に反応する。
「そうだな、俺も家に飯があるだろうから、お暇するよ」
 タイゼンは腰を上げ、立ち上がる。他の数人も立ち上がった。ぞろぞろとサゼムの家を雨傘をさした男たちが出て行く。
 雨はまだ止んでいなかった。
 タイゼンは早々に皆と別れ、親父のいる家へ向かって歩く。すっかり空は暗くなり、日が落ちたせいか寒さが増していた。タイゼンは襟元を掻き合せながら歩く。雨も手伝ってか、一層冷え込んでいた。
 寒さに悴む手を口の息で暖めながら、路地の向こうを抜け、新雪が降った後の雪が積もる田圃の近くにある家に着く。
 雨傘の雨粒をはらって、タイゼンは家の中に入る。床の間にある囲炉裏には火がともっていて、自在鉤にかけられた鍋がぐつぐつと煮立っていた。その向こうで親父が腕を組んで目を瞑っている。うたた寝でもしているのだろう。全く火の始末には気をつけろとタイゼンにはあれほど口を酸っぱくして言うのに、当の自分がこうだ。
 タイゼンは諦めたように笑うと、静かに床の間にあがる。
「親父、飯ありがとな」
 タイゼンが言った言葉に親父の肩はびくりと震えて目を開けた。
「あ、あぁ。寝ちまってた。危ないとこだった。お前が丁度帰ってきてくれてよかったよ」
「そりゃよかった。気をつけろよ」
「あぁ、大丈夫だよ」
 歳のせいだろうか、親父は最近よくうたた寝をすることがある。だからタイゼンは純粋に心配していた。
 親父と鍋を囲む。鳥の煮込みに野菜がざくざくと入っているゴチュン(香辛料の併せに豆を発酵した物を練った物)味の汁だ。鳥肉の隅々までゴチュンの辛味がぴりりときいていて食欲をそそる。
 蓮と白根、芋、葉類には十分に味が染み通っており、噛むだけで汁がじわりと口内に溢れてくる。
 親父は元々器用な人だった。
 元の生業は剣の装飾で、居間は装飾師として飾り物を作ってそれを売って過ごしている。たまに剣の装飾を頼まれることもあるらしいが、仲介の者がいなければやらないと言っていたのを聞いたことがあるからもうやらないのだろう。それでも極たまに剣士や、兵隊のお偉いさんなんかが来て大枚を叩き剣の装飾を頼むことはタイゼンの知る所である。
 親父はそう言う時、室に篭って出てこない。たいてい何かを作っている時は室からは出てこないのである。
「あぁそうだ、町の奥さんの間で、鳥を模した簪が評判だった」
 今日売れた品を思い出して言う。
「なら、少し作っておくか。あれはもう残りが無いからな」
「うん」
 親父は自分の分の食事の片付けを終えると室に戻っていった。
 タイゼンも自室へ戻ると元々少ない荷物の整理をはじめた。旅へ持っていくものと置いていくものを分けて、広げる。置いていくものは室の大きな行李に仕舞う。数半刻も経たずに室の中はさっぱりと片付いた。
 手紙も纏めて紐で括り行李に仕舞ったから、文机の上には何もない。ただ一つ、文机の横につけられた棚の中身を覗いては。
 棚の中にはサゼムからの文が一枚だけ入っていた。これは仕舞って出ていくことはできない。
 タイゼンは文を手に取り、他の数枚の紙と共に囲炉裏端に戻った。
 囲炉裏の火に紙を焼べる。紙は茶色く変色すると黒い炭となって燃えきっていく。ちょっと燃やし終えて火掻き棒で炭を崩せばもうそこに紙があったことはわからない。
 タイゼンは寝間に戻ると、ごろりと筵の上に横たわった。筵といっても一枚布地が敷かれているからそう悪い寝心地でもない。草枕を頭に、タイゼンはぼんやりと通気造りから漏れる月の明かりを見ていた。窓の無いこの薄暗い室の唯一の光源である。
 いつの間にか、タイゼンは寝入っていた。


     ■


 売り捌けなかった品を丁寧に物入れにしまいながらタイゼンは裏路地をふらふらと歩く人影に目を留めた。
 男一人が目の片方に包帯をしていて、それを支えるように背の高い女が側に付き添っている。その後ろを歩く少年も浮かない顔をしていた。酷い怪我のようだ。どこでうけてきたのか、全うな仕事についているようには思えない。旅装束のようで荷物も多かった。冬の木枯らしと雪が降ろうとするこんな時に旅とは酔狂なものである。
 近くにきた男に、店じまいを手伝っていた親父が声をかける。
「なぁあんたたち、大丈夫か?」
 親父の声に不安そうな面持ちのまま顔をあげた少年が、勢いきって口を開いた。
「医者を、知らないか?」
「あぁ。医者なら知っている、紹介してやるよ」
 少年はそれでも不安気である。
「お手数おかけします。どうか、よろしくお願いします。私はジュナン、こちらはタッサンで」
「キゼンです」
「タイゼン、俺は店の始末をするから、この人らをあの先生の所に連れて行ってやってくれよ」
「構わんが……」
 内心、こんな傷をつけて歩いてくるような連中に関わればろくなことにならないだろうと思っていたタイゼンだったが親父に頼まれては断れず、頷いた。
「俺はタイゼン。急いで医者にいこう」
 タイゼンは三人を先導すると、歩き出す。
「変わろうか」
 タッサンの肩を持つジュナンに尋ねるが、ジュナンは首を振った。
「大丈夫です、ありがとう」
 見たところ町にいる女達よりは強そうである。そうかと答えると先を急いだ。
 タイゼンの知る医者というのは、かの昔タイゼンをとりあげてくれた医者であり、かなりの高齢だった。それでも腕は確かでここいらでは評判の人物だ。
 町の外れに居を構えている。初雪は溶けていたが、所々に霜が降りている田圃道を抜け、医者の家に着く。戸を叩くと中から声がして、すぐに戸が開いた。
「やぁ、タイゼン今日はどうしたね。ん、そちらが患者さんかい、早くお入り」
 すぐに後ろにいたタッサンに気づき、ロウ先生は四人を引き入れた。
 治療室の椅子にタッサンを座らせたロウ先生は、手早くタッサンの包帯をといていく。痛むだろうにウンとも言わない男にタイゼンはますますこれは常人ではないと認識を深めていた。表れた眼窩は空洞になっていて、暗い。
 ロウ先生は丁寧に眼窩を消毒して、防腐の薬を塗っているらしかった。タッサンの額に汗が浮かぶ。
「宿は決まっているかい」
「いえ、まだ……」
「ならうちで休んで行くといい。狭い診療所だが、寝台ならあるからね」
「気遣い痛み入ります」
 やっとタッサンが言葉を発した。
 鍛えられた身体からして武人だろう。言葉にも訛りがないからどこの武人かまではわからない。
「タイゼン、そちらの二人に食事を用意してやってくれ」
 手伝いの延長でロウの家も勝手知ったるタイゼンにかけられた言葉に、仕方なくタイゼンは二人を食室まで連れていった。朝作ったのだろう汁物とメオ(小麦のような穀類)を焼き上げたメコンを出す。
「さ、一服してくれ。俺はまた親父の所に行ってくるから」
「どうも、助かりました」
「ありがとうございました……タイゼン」
 キゼンという少年が頭を下げる。
「キゼンか、また会ったらよろしくな」
 名に縁を感じてそう声をかけると驚いた表情でこちらを見返してからうんと頷くキゼンに手を振るとロウ先生にも声をかけてからタイゼンは再び市場に戻った。
「あの人らは大丈夫だったかい」
 親父に聞かれてタイゼンは首を掻く。
「丈夫そうな人だったからなぁ、ロウ先生の手にかかりゃ大丈夫なんじゃねぇか」
「まあそうかしかし、たいそうな傷だったな」
「そうだな」
「なんだタイゼン、気にならんのか?」
「いや。気にはなるが」
 首を突っ込みたくないというのがタイゼンの思いである。
「少し早いが今日は昼飯でも食うか」
「あぁ、手伝うよ」
 昼前から雪が降ってきた。これは積もるだろう。町が白くなっていくのをネイサは窓から眺める。
 喉を通らないかと思った食事も温かい汁物にほぐされて、すぅっとお腹におさまった。タッサンはあれから眠っている。ロウ先生は頭までは傷ついていないから目を失うだけで幸運だったと言った。でも、ネイサには片目を失うことなど想像が出来なかった。掌で片目を隠してみて、見える世界が狭まることに恐れすら抱く。タッサンは武人なのに、尚辛いだろうと思うとどうしようもなかった自分に無性にやりきれない思いが募った。
 ジュナンの次はタッサンで、どちらも二人を失っていたのかもしれないと思うと身震いでは済まない恐怖が襲ってくる。二人がいなくなったら、自分はどうするのだろう。キゼンとして生きていけるのだろうか、たった一人で。国に戻れなくなったら、ヨウカ兄上は、シュウやシンヤ達は、どうするのだろう。自分がいなくてもいつも通りまわるのだろうか。
 自分だけが置いて行かれてしまうような思いに蓋をして、さっき会ったタイゼンという男を思い浮かべる。精悍な顔つきに、行動の迷いなさ、あぁ、格好がいいとはああ言うことをいうのだろうと思う。立派な大人に見えた。キゼンとはどれくらい歳が離れているだろう。ジュナンより年上には見えなかったから、まだ若いのかもしれない。兄上と同じくらいに見えた。
 季節を跨いでしまったのだということを景色からひしひしと感じる。いつもなら廟堂の暖かい室の中から見ていた雪も、見る場所が違えば新鮮だった。
「タッサン! 大丈夫?」
 寝台から起き上がり歩いてきたタッサンにネイサは声をあげる。
「あぁ、心配をかけた。もう問題ない」
 そうは言ってもまだ傷はついたばかりなのだ。
「ここなら少しは休めるだろうから、もっとゆっくりして。今ジュナンが宿を探しに行ってくれたよ」
「そうか」
 タッサンは腰掛けていたネイサの横に座り、同じく窓の外を眺めた。
 暫しの沈黙の後、タッサンは口を開く。
「キゼン、気にしているか?」
「え?」
「ジュナンや、俺が受けた傷をだ」
 正直言えば、気にしていなかった時など無かった。はじめこそ二人は強いから大丈夫だと思っていたけれど、そうではなくなったときからいつも心が痛かった。
「ごめんなさい。何も出来なくて、守られてばかりだ」
 答えたネイサを見て、タッサンは安心したように微笑んだ。
「キゼンの命の前に、片目など安いものだ」
「どうして、そんなに」
 自分を犠牲にしてまでネイサを守るのか。
「俺たちの務めはお前を守り、再び国まで還ることなんだ」
「うん……」
 本当に、帰れるとは思えなかった。国の外に出てしまって尚更そう思っていた、言えなかったけれど。
「還るんだ」
 でも、タッサンの落ちつた言葉に、ネイサは頷いた。
「ジュナンも同じ気持ちでいる。俺たちはそのためにいるのだからな」
 二人の気持ちを裏切ってはいけない、還ることを信じなければ。自分が挫けては二人の行動が無駄になってしまう。
 兄上が死んだのは未だに信じていないし、だから自分の身が危険に晒されているというのも信じたくない。自分が信じられないことばかりの前で立ち尽くしていたとしても、怪我を負ってさえ、守ろうとしてくれている二人は、信じようと思った。
「俺もいただくとするか」
 タッサンは用意されていた食事を手にそう言った。いつも通りに食べ始めるタッサンに安心したネイサだったが、メコンを掴もうとした手が微妙にずれてメコンを押しやってしまった姿にすぐに眉根を寄せた。まだ片目が無い視界に慣れていないのだ。
 失わせてしまったものが大きくて、ネイサはひたすらに辛かった。ジュナンの腹の傷だってまだ、傷跡が赤く腫れているのは知っている。傷が塞がっても傷跡は残る。
 タッサンが食事をしているのを見守っているとロウ先生の家にジュナンと先ほどあったタイゼンがやって来た。
 宿が決まって帰り道に薬をもらいにきたタイゼンと会ったらしい。
「よ、また会ったなキゼン」
「ふふ、先ほどはありがとうございました」
「いいんだよ。タッサンもそんなに悪くはなかったって先生にきいた。何よりだ」
「その節は感謝いたします」
「そう固くならんでくれよ」
「いえ、これも何かの縁だ。ロウ先生を教えてくれて本当に助かった」
「縁といや、俺とキゼンだな」
 言われてネイサはふと気づく。
「建国神話の兄弟か……!」
「なに、俺は結構この名前のおかげで得しててな、気に入ってるんだ」
「名前のおかげで?」
「キゼンは得したことないか?」
「うーん……」
 この名になって日が浅いからとは口が裂けても言えない。少し困るとタイゼンは笑った。
「この町でもどこにでも、いりゃすぐ得する日が来るさ。縁起が良い名前だもの」
「そうかな?」
「そうさ」
 ネイサはこの派手な目鼻立ちをした男が気に入ってきていた。すんなりと人に話しかける話ぶりも、その内容も。
「タイゼンは幾つなの?」
 ネイサから聞くとタイゼンは、おっと言った様子で答えてくれた。
「今年でちょうど二十二になる。キゼンはいくつだ?」
「十三」
「まだ若いな。一回りも違う」
 ネイサは内心びっくりしていた。兄上の歳と同じなのだ、タイゼンが。兄上がいるのだ、と言いたかったけれど、ネイサには兄がいれどキゼンにはいない。ネイサは言いたい気持ちを膨らませながら笑った。
「タイゼンにならすぐに追いつく」
「追いつけやしないさ、変なことを言うなぁキゼンは」
「変じゃない、すぐ大きくなるんだ。タイゼンみたいに」
「そうだな。あっという間さ、いずれ俺たちもタッサンみたいになって果てはロウ先生だよ」
「あははっ、ロウ先生まで生きられるかな」
 皺くちゃなロウ先生の顔を思い浮かべてネイサは腹を抱える。
「生きるのさ。長く長くな」
 そう言うタイゼンの顔はえらく真面目で、ネイサは居を正す。
「うん。そうだね」
 今まで未来など見えなかったも同然のネイサの前に、ただ生きるという言葉が開ける。だから、素直に頷けた。
「そうだ、親父が言ってた。良くなったら遊びに来いとさ。キゼンに似合う装飾具があるからとっといてやるって」
「タッサンがよくなったら行くよ。あの人はタイゼンの父親なの?」
「や、違うさ。親代わりみたいなもんでな、店の親父だから親父って呼んでる。元は細工職人だよ」
「どんな細工を作るんだ?」
「髪飾りから腕輪に首飾り、足輪なんかも最近じゃぁご婦人の間では人気だぜ」
「本当になんでも作るんだね」
「昔は剣の装飾も受け持っててな、今じゃそれは引退したらしいが」
「そっか、すごい人なんだ。タイゼンはそれを継ぐの?」
「俺か? 俺は、そうだな、継ぎはしないよ」
「継がないのか」
「なんだ、不思議か?」
「うん。すごい人が近くにいるのになと思って」
「いいんだよ。俺は俺で、好きなことして生きているから」
「好きなことって?」
「まぁ、店を手伝ったり、ロウ先生の所を手伝ったり、畑を手伝ったり、だな」
「手伝いが好きなんて面白いね」
「面白いか?」
「だって、何でも屋みたいだ」
「何でも屋、ねぇ。そうかもしれねぇな」
 食事を終えたタッサンが口を開く。
「何でも屋のタイゼンに頼みたいことがあるのだが」
「おう、仕事の依頼かい?」
「ここいらで目利きのする鍛冶屋はないかと思ってな」
「鍛冶屋、ねえ。あるっちゃあるけど、隣町だよ」
「そこにキゼンとジュナンを案内してやってはくれんか。キゼンに剣を見繕いたくてな。俺はこの通りの様だ。頼めるだろうか。案内料はもちろん払う」
「仕事ってんならいいぜ。明日にでも行こう」
「すまないが、よろしく頼む」
「あぁ、構わんさ」
 自分の剣を持った事は無かった。だからネイサの心はもちろん弾んでいて、タイゼンにきらきらとした瞳を寄せていた。
「親父の店、わかるか? あそこで朝待ち合わせよう」
「わかるよ! じゃぁ、明日の朝、そこに行くから」
「待ってるぜ。遅れるなよ」
「もちろん」
 タイゼンは笑うと診療所を後にした。ネイサはこれから持つことになる剣の事で頭がいっぱいだった。廟堂では戦いの稽古の時に持たされるくらいで、後はセハと鍛錬した時に持った木剣が精々だったから、本物の、自分の剣をもつというのは非常に心踊ることなのである。
 剣は戴冠と共に授けられる供物だったから、自分の身を守り、生きる道を切り開く剣というのは初めてだ。おそらくヨウカ兄上も持ったことがないだろう。
 ジュナンが見つけてきた宿は二階建ての長屋切りのこじんまりとした宿だった。庶民的とはこういうものだろうと思う。今まで野宿ばかりだったから、温かいご飯とふかふかの寝台があるだけで随分と心持ちも違ってくる。
 タッサンとネイサは同じ部屋で、ジュナンが別部屋だった。タッサンの傷を慮って、ネイサは整えられた寝台にタッサンを寝かせることを使命とばかりに「休んでくれ」と言う。タッサンも必死なネイサに素直に頷くと寝台に横になり、寝息を立て始めた。やはり、疲れていたのだ。
 食事は一階の食堂で、というので食堂にジュナンと共に降りる。
 メコンがこの国の主流な食事らしい。どこかしこから焼きあがったメコンの匂いがただよってきて、お腹をくすぐる。メコンと汁物と肉を焼いたものに添えられた野菜。夜の食事はそれだった。ネイサはさっそく食事を口に運ぶ。肉汁がメコンのさっぱりとした部分に染み込んでとても美味しい。添えられた野菜も蒸かしてあるのか、甘みが凝縮されていて、ほっこりとした味わいだった。
 ジュナンと共に食事を終えると、タッサンの分を持って室まで戻る。
 寝台に横になっていたタッサンだが、食事のために起き上がる。
「メコンは久々だな」
「いつか食べたことがあるの?」
「ずっと昔だ。まだ俺がキゼンより少し大きい頃だったな、ここにきたことがある。ロウ先生は覚えていないかもしれないが、ロウ先生にも会ったことがあるんだ」
「へぇ、それは、随分前の話だものね。覚えているかな」
「それにしても焼きたてのメコンは最高だ。ここの宿をとってくれたジュナンに感謝せねばな」
「うん、とっても美味しかったよ」
 つかの間の休息。
 追われていた三人にはとても優しい時間だった。たとえ片目が失われても、腹に赤い傷の痕が残ろうとも。
 ジュナンは一人部屋で服を脱ぐ。盥に張ったお湯に手ぬぐいを浸し肌をゆっくりと湿らす。蒸気するほど熱いお湯だった。冬の寒さにはこれぐらいがちょうどいい。顔、首、腕、胴、腰、太もも、脹脛から足の先までお湯を含んだ手ぬぐいで拭っていく。旅の疲れが吸収されていくようだ。腹には相変わらず真っ赤な傷痕があったけれど、それでも自分は生きている。ネイサを守ることができる。その身体にジュナンは誇りを持っていた。
 村で行き遅れの男女と言われて育ち、弓の才をタッサンに見出されなかったなら、今の自分はないのだ。だから。腹の傷をつぅとなぞる。自分が必要である場所にいられるというのは、どれほど幸運なことであろう。
 キゼンの姉たる存在であろうとはしているが、どうしても姉というとセン姫を思い出してしまう。あの嫋やかな女性像と私は絶対的にかけ離れているのだ。どう埋めていくか、接していくか、それがジュナンの中での課題だった。
 明日はキゼンをタイゼンと合わせなければならない。珍しくキゼンが懐いていたようだけれど、ひとえにタイゼンの人柄だろう。
 ジュナンは沐浴を終えると夜着を着て寝台に寝転がった。
 翌朝、ジュナンはネイサを連れてタイゼンの親父がいるという店に向かった。雪がうっすらと積もっている中でも「寒くないか」と聞けば靴は暖かいらしい。良い靴を選べてよかったと微笑みつつ、店につく。この雪でもまばらに店は開いていたが、露店にはしないようだ。
「あぁ、よく来てくれたね」
「どうも、先日はありがとうございます」
「傷の具合も悪くないようでよかったよ。こんなに早く会えるとはね、キゼンだったかな」
「おはようございます」
「君に似合う装飾具があるんだ、タイゼンの奴はまだ来ていないから中でお茶でもどうかな」
 勧めに乗って、茶を用意してもらう。ネイサははじめて見た色の茶だった。濃い茶色をしていてでも澄んでいる。恐る恐る飲むと柔らかな葉の香りが鼻腔に広がって存外美味しかった。
 奥からなにやら取り出してきた親父は、それを机の上に置くと見せた。
「君は髪が長いから、似合うと思うんだけど、気にいるかな」
 髪紐だった。髪紐に小粒の宝石が連なって幾つか垂れ下がるようについている。
「すごく綺麗だ。似合うかな、僕で」
「君だからこそだよ。どうかな、趣味で作ったもので、店には出していないんだ。貰っていってくれて構わないよ」
「え、お代は」
「君に似合うからわざわざ出してきたんだ、似合う人につけてもらうならお金なんていらないよ。趣味のようなものだしね」
 ネイサは礼を述べると、そっと髪飾りに触った。繊細な作りである。
「つけてみたらどう?」
 ジュナンに言われて、髪の結い方がわからないのだと言えなかったが察してくれたらしく後ろを向いてとの言葉に従い、ジュナンに髪を結ってもらった。随分と伸びていた髪は肩の下まで来ている。確かに外で生活するには邪魔だった。
 ジュナンは慣れた手つきで髪をとると、編んで一つにしたところを丸めて髪紐をつけてくれた。
「うん、やっぱり君に似合うなぁ。作ってあってよかったよ」
「ありがとうございます」
 髪がすっきりすると気持ちもすっきりしたように思えた。
「親父ーおはよう」
 店の方からタイゼンの声がして、彼が姿を現した。
「よう、もう来てたのか早いな二人とも」
「お前寝坊でもしてたんだろう」
「はは、でも間に合ったからいいだろ。お、似合うな。いいじゃないか」
 タイゼンはネイサの髪飾りを指していう。
「ふふ、いただいたんです。すごく気に入ったよ」
「そりゃなによりだ。中々似合う男はいないからなぁ、さて行こうか」
 タイゼンにも褒められて上機嫌なネイサはうんと大きく頷いた。
 店を出てからタイゼンは馬宿に行くといって歩き出した。
「私たちも馬を預けてある。同じところでしょう」
「だろうな、一軒しかないから。馬があるなら話は早い。すぐに着けるぜ」
 馬宿に預けていた馬を再び出して、三頭の馬で隣町へ出発することになった。
 昨日ぶりだというのに懐かしく思ってネイサは馬の横面を撫でた。馬もきちんと覚えているらしい。下草を千切って食べさせてやるともぎもぎと食べる。
 馬に乗って町を出る。雪道とはいえ、馬も慣れたものでさすがライケンにいた馬だなと思った。ライケンは雪深くなるのだ。ここエラウはライケンよりはましらしいが、それでも雪は積もっていた。半刻ほどして町が見えてきて、森の方へ行く道へタイゼンは向かう。
 こんなところに店があるのだろうかと思っていると、鍛治をするカンカンという叩く音が聞こえてきてネイサは感心した。職人というのは皆こういうところに居を構えているものなのだろうか。
 馬を馬房に繋ぎ、タイゼンは勝手知ったる様子で鍛治屋に入り込んだ。
「おやっさん、元気ですか」
「おぅ、久しぶりだなお前が来るのは」
「今日は一つ頼みがあってな」
 ネイサとジュナンを紹介すると、鍛冶屋の爺は椅子をすすめた。
「このキゼンに剣を見繕ってほしいってんだ」
「坊っちゃんにか。どんな剣がいい」
 突然聞かれてネイサは戸惑う。
「えぇと、強くなれる剣が欲しい、です」
 ネイサは強くなりたいのだ。だから、素直に気持ちを伝えた。
 すると鍛冶屋の爺はふむと顎に手をあて、答える。
「坊っちゃんにとって強さってのはどんなもんだ」
「強さ、はただ真っ直ぐだと思います。打たれ強いとか、決して曲がらないんです」
「そうだなぁ、剣も多くは曲がらん」
「あとは柔らかいものだと思います。全て受け止められるように」
「うん。いいだろう。君に見合ったものを作ろう」
「いいんですか?」
「剣を作りにきたんだろう」
「ありがとうございます!」
 爺はネイサの手寸法なんかを目測して、掌を開かせたり、立ち上がらせたり、歩かせたりした。
 本来は人を見て作るものではなく、ある程度の大きさのものを量産していくが、人が来たとなれば、その人に合わせたものを作るのは天下一品の爺だという。
 こんな良い鍛冶師はいないとタイゼンが褒めていた。
「また二十日過ぎたら来てくれ。急いで仕上げる」
 と言われて、ネイサ達は隣町を後にすることにした。
 帰り際、岩壁の先に道が続いているのを見て、ネイサは声をあげた。
「この先はずっと岩なの?」
「ここは昔鉱山だったんだ。ライケンにも繋がってる広い鉱山だ」
「じゃぁ、道があるってこと?」
「そうだなぁ、今じゃ危なくて誰も通らないがな」
 ネイサは興味津々だった。
「中は入り組んでてアリの巣みたいになってるんだ、絶対入るなよ、でてこれなくなる」
「うん」
 と返事をしつつも気もそぞろなネイサにジュナンは微笑む。年相応の男児を見ているようで、どこか安らいだ気持ちにさせた。でも一言は言っておかねばならない。
「入っちゃだめよ」
「わかってるって」
 ネイサは普通を知らないからどう動くか予想がつかない。
 町までは大人しく帰ってきたからよかった。ネイサの興味が尽きることはないのだ。今まで廟堂で籠の鳥としていきてきたからか、真新しいもの全てじぃっと見入るのである。
 ジュナンは持ってきていた紹介料をタイゼンに渡す。
「今日はどんな仕事をするんだ?」
「足の不自由な婆さん家の雪かきだよ」
「そうか、雪かきか。その前に仕事を引き受けてくれて感謝している」
「あぁ。いい剣が出来るといいな」
 そう言ってタイゼンは去って行った。
 宿に戻るとタッサンは眠っていた。まだ真新しい包帯を巻いてあるタッサンの顔は痛々しい。胸が上下しているのを見てネイサは安心する。
 起こさないようそっと立ち上がるとネイサはジュナンの室を訪ねた。出迎えてくれたジュナンは軽装である。
「どうかした? キゼン」
「タッサンを起こしたくなくて。邪魔じゃなかったらいてもいい?」
「邪魔なんてことは一つもないからゆっくりして行きなさい」
 手元の茶筒から茶葉を出すと囲炉裏にある自在鉤に鉄瓶をかけて湯を沸かす。
 ネイサが手持ち無沙汰に見えたので、ふとジュナンは言ってみた。
「弓の練習でもする?」
「ここで、できるのか?」
「まず矢を打つことはないから弓の構えと型からね」
「うん、したい!」
「よしならやろうか」
 ジュナンの弓はネイサには少し大きいだろうが支障はない。まずはなにも持たずに構えさせると、両腕の位置を教える。
「まず弓を持ったうでを上に上げる、それから腕をまっすぐに下ろす。この時腕が曲がらないように。一本の矢をつがえている気分でね」
 何度かなにも持たせずに型を教え込む。今度は弓をもたせた。持ち方を教える。
「さっきやった型通りやってごらん」
 ネイサはゆっくりと腕をあげると、弓を引いた。
「このまま右手を離すと矢が放たれる。離してみて」
 弓弦が元に戻る。
「弓を引くのは存外力がいるのだな」
「そうね、腕だけでなく、姿勢から足腰まで全身の力を調節しなければいけないから。剣とはまた違うけれど、いいものでしょ」
「うん。弓も気になるよ。でも僕はジュナンのような使い手になることは難しいと思うけれど。少しずつ教えてくれる?」
「もちろん。剣が主役だけれど、出来ることに越したことはないからね」
 ジュナンはこれが基本の型だが、戦の時は下から弓を引くことのほうが多いのだと言った。
 鉄瓶が蒸気を上げてカタカタ音を立てていたので、二人は炉端に戻ることにした。
 ジュナンが沸かした茶をネイサに出す。熱く湯気をたてている茶に、ネイサはふぅと息を吹きかけ冷ました。
 廟堂の茶も温かいが沸かしたてとはわけが違う。風味を楽しんでから口をつけると甘かった。
「甘いね」
「口に合わなかったかい?」
「ううん、美味しいよ。これ、甘味も入ってないんでしょう?」
「そうだよ。サコ茶といって、サコの葉を茶にするとこんた甘い風味がでるんだ。身体にいい」
「タッサンにも飲ませてあげたい」
「タッサンが起きたらまた淹れよう」
 頷くネイサは嬉しそうだった。自分のせいで怪我をした彼等に出来ることは少ない。だから、出来ることは少しでもと思うのだ。
 雪が降ってきた。ダイゼンはこんな中雪掻きをしているのだろうか。雪掻きなどやったことは無いネイサは正直雪掻きというものを見てみたくて仕方なかった。窓際へ行くと、階下の方で木の板がついた棒を熱心に動かしている人がいるのが見えた。店の前だけを綺麗にするようだ。園丁の持っていた道具を思い出す。土をいじる時に大きな掬いを持っていたが少し似ている。
「窓際にいて寒くない?」
「うん、大丈夫」
 窓際に噛り付いているネイサにジュナンは微笑む。民衆の生活など見たことがないから珍しいのだろう。
 夕餉の時間になり、ネイサとジュナンは先に済ませた。タッサンの元に汁物とメコンととろみのついた果実を持っていく。
 ジュナンは鉄瓶と茶の用意もしていた。
 起き上がったタッサンは指を組み、前に伸ばす。連日動いていたというのに休むというのはやはり身体が固まってしまうのだろう。
「うまいな」
 主菜を食べ終え、お八つに手を伸ばしたタッサンが言った。ちょうどよく茶もはいったらしい。出された茶をごくりと飲む。
「サコ茶か。久方ぶりに飲んだな」
「えぇ、持ち物にありまして。キゼンも気に入ってくれました」
「そりゃいい。いい葉だな」
 そう言ってもう一口飲む。
 ネイサは視線をさ迷わせながら口を開いた。
「目は、もう大丈夫?」
 聞きたくても今までは聞けなかった。今なら、いいかと思ったのだ。
「あぁ、視界にも慣れたし、ロウ先生の薬のおかげで腐りもしていない。治るだろう」
 良かったとは、素直に言えなくてネイサは頷くだけにとどまった。聞いたのは自分なのに何気ない言葉すらかけられない。心配しているのだけれど、上手く伝える事が出来ない。元はと言えば自分のせいなのだから。
「無理、しないで」
 やっと言えた一言はそれくらいだった。しかし、タッサンはその相好を崩すと、頷く。
「明日は外に出ようと思う。身体が鈍っていかんからな」
「ついていってもいい?」
「もちろんだ」
「三人で行きましょう」
 翌朝、朝食を食べてすぐに三人は近くの森まで出てきた。
 朝の市場で昼食を買って、昼まで稽古をすることになった。タッサンは感覚を取り戻すために一人で剣を振るっている。ネイサといえばジュナンが調達してきた安い矢を使って弓の稽古をつけてもらっていた。
 すぐに腕が痛くなる。おまけに矢は的にしてある木の近くに落ちてしまう。
「ジュナン、もう一度手本を見せて」
 ジュナンに弓と矢を返すとジュナンはぐっと弓弦を張りタンと音がしたかと思えば木に命中していた。
 同じ弓で同じ矢だというのに。やはり年数には勝てない。
 また教えてもらいながら熱中しているとタッサンがやってきて手合わせをしようと言った。
 お互い持つのは適当に拾った木の棒だ。
 タッサンが構える、ネイサも構えた。
 枝の先でお互いに牽制する。タッサンが仕掛けてきた、斜め下からくる枝を避け、タッサンの横に回る。タッサンがこちらを向く。右から叩き込むがタッサンはすんでの所で受け止めた。いつものタッサンなら難なく受け止めているだろう。
 片目が見えていないせいだ。
 けれど、タッサンにやめる気は無いようだった。すぐにネイサの棒をはらって突きを入れてくる。仰け反って避けると容赦なく打ち込んできた。
 受けとめたネイサの棒がばきと音を立てて折れた。
「これまでだな」
「ありがとうございました」
 タッサンに頭を下げて、ネイサは折れた棒切れをみる。なんと見事に折れたことか。手加減していてこれなのだから恐ろしい。自分はもし剣が折れても戦い続けることはできるだろうか。
 それからまた暫く、手合わせをしたり身体を動かして、昼になってから露店に行くことにした。
 天気もいいので露店も多く出ている。
 この国特有のメコンの野菜挟みを食べながら、ネイサは賑わいをみせる町を見渡していた。
「ヨルガの帝が死んだって!?」
 思わずそちらに顔を向けようとしたが、ネイサはぐっとこらえて側耳をたてる。
「弟の方も死んだってな」
「戦争も起こしてる途中なのにどうするんだか」
「なんだい、じゃぁ姫さんしか残ってねぇのかい」
「帝の一頭政治だっつうのに」
「今までこんなことあったかい」
「いやぁ、ないね。俺の爺さんの代でもヨルガは元気に戦争やってたじゃねぇか」
「あそこは戦争が好きだからな」
 戦争が好きなわけではない。国を広げる義務だと、ヨウカ兄上は言っていた。だから戦をするのだと。戦は先代先々代から受け継がれた意志なのだと。ネイサとて戦いは嫌いだ。義務なら仕方ないと思った。それが帝一族のすることなのだから。でも、民は違った。
「まぁ帝がいなくなって戦が収まるならそりゃいいけどな」
「馬鹿言え、いままで鬱憤の溜まってた連中がヨルガに駆けつけるだろうが」
 そうだ。ネイサが今一番恐れていることはそれだった。自分が還るより先に、国がなくなってしまうのではないか。そんな思いがネイサに胸騒ぎをおこす。
「東の方じゃすでにおっぱじめようって連中が準備してるらしいって聞くぜ」
 民は戦争を恐れている。
「勝てば潤うんだがなぁ。また出兵か?」
「俺たちもうすぐ出兵の規定にも収まらなくなるさ」
 話しているのは中年の男たちだ。一度戦争に行ったことがあるのか、指に怪我を負っている者もいる。それとなくネイサがそちらを気にしていることを、タッサン達もわかっただろう。
 勝てばいい。そう言った。たしかにそうだった。ヨルガは戦に勝ち、領地を広げることで国民に潤いを与えていたのだから。必ず勝つ。それがヨルガの戦だった。南方との戦争中である今、帝が亡くなったという報がどのような意味を持つのか、ネイサにわからない訳がなかった。文字通り敗戦の色が濃くなるのである。シンヤ達がどのように事態を収拾するのかはわからないが、このまま戦を続けるつもりなのだろうか。
 食べ終わったネイサがそのまま座り続けているのも仕方のない話だった。自分で還らねばと志した矢先のことだ。
 国が無くなったらネイサはネイサとして生きれない。キゼンに成り代わってしまうんだ、とネイサは心中に重くのしかかる石を感じた。キゼンとしての自分は何なのか。果たしてネイサにはまだわかっていないのである。
「さて、そろそろ宿に戻ろう」
 タッサンの言葉にジュナンが「えぇ」と返す。ネイサは無言で立ち上がった。
 宿は相変わらず憎いほどに平穏なひと時を提供してくれる。ネイサの心中は下向きになるばかりだ。そんなネイサに二人は声をかけることはなかった。でもネイサはそれでよかった。廟堂にいるときのように、見えない壁を作って一人で居たい気分だったからだ。誰にも干渉されない場所で一人で。
 ネイサは未だにヨウカが死んだことを信じていない。
 国に帰ったら自分のように逃げ延びたヨウカと再会することになって、再び喋りかけて笑ってくれるのではないかと、そう信じていた。でなければ何故、自分一人しか逃せなかったのか。自分を逃がすくらいならヨウカ兄上の方が大事だ。きっと言っても誰もわかってくれない。それに、キゼンである自分は兄上の話などできないのである。ネイサは重々承知していた。誰がみても、帝の弟であることを悟られてはいけない。キゼンとして生きるなら兄上も姉上もいないものと思え、ネイサは自分にそう言い聞かせた。


     ■


 ジュナンは一人で出かけていた。
 目的は仲間であり同胞との落ち合いである。タッサンにはただ弓の調整をしてくると言って出てきたので気づいているかはわからない。
 ヨルガ国には影の者といつしか呼ばれるようになった集団がいた。それは国内にも国外にも散って、帝の目、口、耳、手、足、となる者たちである。皆普段は民に紛れて生活していて、廟堂に行くことはほぼ無いと言っていいだろう。このエラウにも数少ないジュナンの知り合いが一人いた。
 影の者となってから知った一人である。彼女は槍の名手だった。風の噂で今はエラウの貸金庫で働いていると聞いた。ならばあってみる他ないとジュナンは出かけてきたのである。
 ジュナンには似合わない宝石のついた腕輪を懐に、中心地にある貸金庫屋を訪ねた。
 物を預けたいのだというと誓約書を作る者を呼んでくると言われ少し待たされる。やっとしてからきたのはジュナンの目的であるその人だった。
「腕輪を預けたいんだが」
「腕輪ですか。お品を拝見させていただいても?」
「あぁ。コサ、話がしたい」
 小声で名を呼ぶとコサは微笑んで頷いた。
「物は預けますか?」
「いや、いいかな。それとも口実が必要か?」
「いえ構いません。今出ますから外でお待ちください」
 コサはそう言うと席を立った。
 ジュナンはいわれた通り外に出る。貸金庫屋の外は貸金庫を守るための私兵が置かれていて居心地がいいとはいえない。
 少し離れたところで待つとコサが来た。
「随分と突然だね」
「悪い少し急用があって、どこにいるか確信がなかったから早文も出せなかった」
 ジュナンが謝るとコサはカラカラと笑う。
「そりゃアタシがどこにいるかわかったら駄目だからね。それでなんだい」
 正直、ジュナンは迷っていた。影の者は横のつながりが薄い。だから、手を貸してくれるかと言うのは躊躇われた。
 でも、コサがいてくれれば尚安心することは出来た。タッサンが手負いの今自分一人がネイサを守らねばならないということに不安を感じていたのだ。
「手を貸して欲しい。それも長い期間だ」
 コサは今度は笑わなかった。
 鋭い瞳がジュナンを射抜く。
「今、どこについてる」
「ヨウカ帝の御意志に」
 コサはひとつも表情を崩さず黙った。
 ジュナンは答えを待つ。昔同じ任務について少し年上のコサが何かあったら頼りなと姉さん風を吹かせていたのはよく覚えていた。だからジュナンも信用を置いているのだ。
 けれど、返ってきた答えはジュナンの予想を裏切る言葉だった。
「駄目だ。私はもう御意志には合わない」
「どういう……」
 頭ではわかっていた。
 つまりもうコサは敵であるということが。
「あんたが御意志の元にあるってことはつまりあの坊ちゃんは生きているのかい」
 嗚呼、不味い。ジュナンは内心後悔する。距離をとった。
「コサが御意志の元にないというなら答える義務はない」
「なら、帰りな。帰らないというならアタシはあんたを殺さなきゃいけない」
 なおもジュナンが黙っているとコサは言葉を続けた。
「エラウから出るまでは見なかったことにする。これはタッサンへの敬意だ。二度は言わない」
 ジュナンはコサからさらに距離を取ると門を曲がるところで背を向けた。その口元はぎゅっと結ばれていて、眉根は寄っていた。
 コサは、姉面をしていた頃とは違う。もう決してあの時のようには話せない。味方ではなくなっていた。
 その日宿に戻ってから、ジュナンはタッサンに事の次第を告げた。だからエラウを出たらもう戻れないと言うとタッサンは静かに頷いた。影の者にも離反者が出ているのだ。ヨルガはさぞ困却していることだろう。ヨウカ帝がなくなった今、ヨウカの為に動いていた人材はばらけてきている。
 影の者はその者のためだけに仕える存在だった。だからその者がいなくなれば離れることもできる。ただ生涯影になった者は仕える対象が亡くなるか自らが亡くなるまで影でいつづけなくてはならない。冷静に考えればコサが敵になったのも頷ける話しだった。彼女は影から解放されたのだ。だがあの口ぶりから察するに、未だに誰かに仕えているようではあった。ネイサを始末しなければならないような口ぶりだったからだ。
 用心することが増えて参ってしまいそうだった。でもジュナンはネイサを見守ることでなんとか堪えようと心を落ち着かせる。動揺しているのは旧知の仲だったコサだからで、別段他の影が敵になってもここまで取り乱しはしない。
 そうだ、自分はヨウカ帝の御意志でネイサを守っているのだから。御意志の元にあるだけだ。


     ■


 鍛冶屋に行ってから、二十日がたった。ネイサはジュナンやタッサンと鍛錬をして過ごして、時たま露天や店を見に行ったりした。タイゼンはあの店に行っても見かけなかった所を見ると違う仕事で忙しいのだろう。タッサンはたまに薬をもらいにロウ先生の所へ通っている。傷の経過はいいらしい。最近露店で買った黒い目隠しにも慣れてきた所だった。
 ジュナンとネイサ、今度はタッサンも伴ってあの鍛冶屋にいくことになった。
 この間と同じ朝一に出立する。鉱山を見かけたタッサンは「今でも中を歩けるのだろうな」と言う。
「本当に?」
「だめですタッサン。キゼンが行きたくなってしまうから」
「はっはっは、男たるもの一度はこう言う場所に憧れを抱くものだ」
「全く。キゼン、戻ってこれなくなったら困るから、行かないことよ」
「わかってるって」
 ネイサにとってはとてもわくわくする場所だ。未知の知らない世界というのには恐れよりも興味が勝つ。知らないことを知るのは良い。自分が賢くなった気になる。
 鍛冶屋では変わらず鋼を打つ音がしていた。
 中に入るとやっと気づいたらしい。音が止んで爺が立ち上がった。
「おう、来たか。出来てるぜ」
 そう言って棚から一振りの剣を取り上げた。簡素な鞘だが、美しく茶に塗られた鞘がついている。爺は鞘から剣を抜く。
 剣が光った。
 ネイサはそう思った。戦うなんてとんでもない、人を切るためにある道具なのにとても美しかった。刃は湾曲しておらず真っ直ぐで、両刃である。柄もしっかりとしていて、持ちやすそうだ。
「ほれもってみな」
 剣を渡され、ネイサはその重さがじんと手に身体に馴染むのを感じた。柄は太すぎることなく細すぎることなくぴったりである。今まで練習で持ったことのある剣や木剣とは話が違う。
「鞘は俺の弟子が急ぎで作ったんだが、中々質はいい」
「ありがとうございます! こんなにしっくりくる剣ははじめてだ」
 ネイサは頭を下げた。
「本当に素晴らしい腕をお持ちだ。いい鍛冶職人を紹介してもらえたものだ」
「なに、俺はもう引退みたいなもんさ。戦のために同じ剣を作るのに飽きちまった。だからこんなところで釜や鍋や包丁を直してるんだ」
「僕にはもったいないくらいだ」
 ネイサが言うと爺は笑って答える。
「その剣に見合う男になりゃ、もったいなくもなくなるさ。お前に使ってもらうために作ったんだ。長く持ってくれ」
「うん! 大事にします。心から」
 鞘に納めて尚輝きが頭の中を走る。陽の光のような剣だった。大事に両腕に抱えると、ネイサはまた頭を下げた。
 鍛冶屋から離れるまで何度頭を下げたことか。それほどネイサは嬉しかったのである。
 剣は分身だ、とタッサンが教えたことがあった。自分のように優しく、丁寧に、時に強く扱うのだと。だから手入れを怠ってはならないし、振るうこともやめてはならない。それを持つことが一番大事だと。
 ネイサは自分の分身ができたようで心からくる興奮がはにかむ顔にまで出ていた。
 ずっと浮かない顔で過ごしていたネイサが少し持ち直したようでジュナンは内心安堵していた。ヨルガ国のことは自分たちではどうしようもない。だからネイサを慰めるにも慰める言葉が見つからないというのが正直なところだった。
 新しい剣を腰に佩いたネイサはまた宿に戻ろうと町へ馬を進めようとした。するとタッサンが呼ぶ。
「エラウから移動だ。今度は西へ」
「また馬旅よ」
 ジュナンが笑った。
「エラウは広いからここから出るのも一苦労だがな」
「ええ。ゆっくり行きましょう。なにせここは国の外なのだから」
 寂しそうな顔で言う者だからネイサはジュナンに言った。
「思い出の土地なのか?」
 今度は驚いた顔をする。
「そうね、思い出はあるかな」
 でも、もう決別しなければいけない。とは続けなかった。いたずらに不安がらせるのは好きではない。
「じゃあ、ゆっくり旅ができる」
 元気よく言うネイサにタッサンとジュナンは微笑み頷く。今まで旅をしてきたものの、旅を楽しませる旅はしてこなかった。だからこそ、ネイサが外に少しでも触れられるようにするのはタッサンとジュナンの使命でもあった。
 与えられた指令は『生かすこと』である。だから、シンヤは戻ってこないことも勘定に入れているはずだ。概ね、今はネイサが戻る気でいるからそれをシンヤに伝えてはいるが。廟堂の方は首謀者の炙り出しに時間がかかっているらしい。
 相手も馬鹿ではない。国の転覆をはかるくらいだ。首謀者は中にいることはわかっているという。だが、明確な尻尾を出さないのだ。
 影の者もそれぞれ独断で動き始めているというのがコサの行動でわかった。仕える者が亡くなれば、影は無くなり散り散りに行動し始める。だから味方は早いうちに見つけなければならない、ネイサのためにも。ネイサを生かすことが目的であっても彼の帰りたいという気持ちは尊重したかったし、叶えてやりたいと思ったのだ。
 時間は有限ではない。