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 昔々の事である。
 大きな鳥居の向こうに建つ木造の屋敷に、一人の男が住んでいた。屋敷は村から離れた場所にあり広い屋敷の周りには幾本もの木々が生い茂っていた。木々の中には樹齢千年とも見受けられるものがちらほらと立ち尽くしている。
 男が住む屋敷は一見、神社のようにも思える。鳥居も然ることながらその奥に建立されている本殿の屋根は柿葺きで、どんと構えるその姿は大きく立派であった。
 しかしこの屋敷、拝殿が無い。ただ大きな鳥居だけが存在を主張しているばかりだ。その通り、参拝客等どこを見ても見当たらない。やはりここは神社では無く屋敷なのであろう。
 本殿の横に建てられているもう一つの屋敷の縁側で、書物を読む男がいた。
 外見からして、男の齢はそれほど高くはないようで、角張った線を覆う肌は白く、まるで健康な色とは程遠い。時折風に攫われて、伸びかけた前髪が目にかかると男はそれを欝陶しそうに掻き上げた。
 まだ陽は真上にも昇っていないのに関わらず男は余暇を潰すように文字を追っていた。
 この男こそ、屋敷の主人である、佐吉である。

 佐吉は、近くに住む村人達とは全く違った生活を送っていた。村人が畑を耕している時にも、家に帰る時も、佐吉はずっと屋敷に居た。たまに屋敷を出たと思えば二三日帰らないのは当たり前で、家に居れば居るで、殆どを屋敷の中で過ごす。しかし畑仕事もせずに、何をしているのだか分からないこの男に表立って厭味を言ったりする者はおらず、村人が咎めたりもしなかった。たった一人で大きな屋敷に住む佐吉に、何かを言う者など誰ひとりいないのである。
「佐吉ーィ」
 縁側に寝転がっていた男の名前を呼ぶ声が裏庭に響く。佐吉、と呼ばれたその男はやっと書物から目を上げ、顔にあたった太陽の光に目を細めてから、やって来た男の方を見た。
 やってきた男は少々薄汚い格好で大きな箱を背負い、佐吉に向けて片手を上げた。
 佐吉はその男の姿を見留めると、脇に読んでいた書物を置いて縁側に座りなおし男に笑いかける。
「やぁ三平さん。お久し振りですね」
「あぁ久しぶりだ。今回はちっと遠くまで行っててなぁ」
「へぇ、それはそれは。お疲れ様だ、上がってください」
 佐吉は男を縁側に上げてから腰を上げ、桶の水に浸してあった布を絞って三平に手渡すと彼の横に胡座をかいた。
「相変わらずだなァ。ここは」
「そうですな。まぁ、変わりませんや」
 佐吉は起きているのか寝ているのかわからない位に細めた目を縁側の外に向けたまま相槌をうつ。
 三平の言う通り、まるで村は変わる様子が無い。前の年も、その前の年も、三平はこの村を見ているが、いつ来て見ても村に変化が訪れる様子は無い。
 縁側に座って外を向きながら頷く三平は随分と物憂気な表情をしていた。
 そんな三平を横目に佐吉は、今横に座っている男が最後にここへ来たのが、去年の冬頃だったかと思い出す。二人は暫く沈黙したまま麗らかな外の景色をぼんやりと眺めていた。時折緩やかに吹く風が、黙ったままの二人の間を通り抜けていく。
「三平さん最近仕事はどうなんで?」
「まぁいいほうだ。困ることは伍満とあるんだがな」
「困ること、ですか、そうですね……」
 ひとつ間を置いて佐吉は思い出したように立ち上がりお茶を出しましょうと言って、縁側に腰掛けていた三平にどうぞ上がってくださいと促した。佐吉が奥の方に姿を消し、茶と煎餅をのせた盆を持って帰ってくるのにそう時間はかからなかった。
「悪いね」
「構いません。うちは一人ですから、寂しいもんです」
「そうかい。おめぇさんは随分と楽しんでるように思うけどなぁ」
「えぇ、そうですね」
 笑い混じりに三平が言うと佐吉は曖昧に笑みを浮かべて返し、自分も腰を下ろす。
 三平が茶を一口含んでから煎餅に手を伸ばした。彼の背に背負われていた大きな箱はいつの間にか壁際におろされている。
「今度はどこまで行ってきたんです」
「あー、北の方だよ。まったくね、寒いったらありゃしねぇな」
「そりゃまた」
「あっちの方は薬草も生えてっからな、寄り道が多いわ」
 ボリボリと煎餅を食す彼――三平の仕事は、医者である。医者といっても薬屋家業を継いでなったものであるから、本業は薬屋なのだが、三平が名乗る時は医者だ。そういう訳で、彼は地方で薬を売り歩いているのだった。
「おめぇんとこは変わりねぇのかい、佐吉」
 四枚目の煎餅を食べ終えたところで三平が佐吉に言った。佐吉は相変わらず煎餅を食べる手を休めない彼に向けていた視線をふいと逸らす。
「幸いなことにね。なんも」
「ンなら、暇だって事かい」
「まぁ、そうなりますか」
 三平はそうかいそうかいと呟いて、また縁側の方を眺める。
 彼の目の下にはうっすらと隈が出来ていた。きっとこの村に来る前の峠山を越えてきたせいだろう。あの峠山はかなり険しい山道だ。寧ろ獣道と言うべきか、と佐吉は思う。体力のある男でも休み無しに越山することは難しい。
 三平が茶を飲み終えるのを見計らい、佐吉は立ち上がった。
「お疲れでしょう、少し休まれてはどうです」
「悪いなァ、すまんね」
 構いやせん、と佐吉は笑った。
 床間に三平を残し、佐吉は盆を持って部屋を出る。ひたひたと廊下を歩き、お勝手につくと盆を置き、湯呑を片付けた。佐吉が再び床間に戻る頃には、三平は草枕を頭にもう夢中にあった。
 四つ時から明けの時間一杯眠り耽った三平が目覚めたのは、暮れ六つも深まり始めた五つの頃だ。泥のように眠ったから目覚めは良かったものの、もう夜も更けている。部屋に置かれた行燈の明かりが柔らかに畳を照らしていた。
「あぁ、起きられましたか」
 隣の座敷にいたらしい佐吉が、開け放たれていた襖の奥の暗がりから出てきた。唐突に姿を現した佐吉に三平は顔では平静を装いながらも内心では非常に驚き、佐吉であった事にただただ安堵の溜息をつく。毎度の事ながら、佐吉の気配は毛程も感じる事は出来なかった。突然どこからか現れる、まるで妖怪のような奴だと三平は思っていた。
「遅くなりましたけど三平さん、夕餉でも如何ですか」
 三平が貰うと返事をすると、佐吉はまた部屋を出て行きすぐに箱膳を手にして戻ってきた。置かれた夕餉からは、湯気さえたっていないものの美味そうな香りが鼻腔を擽る。三平が夕餉に手を付けはじめると、佐吉は茶を啜りながら近くに胡座をかいた。
 障子戸の外は晴れた月夜なのだろう。時たま吹く風が、草木を撫でてゆく音が幽かに聞えた。行燈の火がジリジリと焦げ、三平が咀嚼する音と佐吉が茶を飲む音が座敷の中を支配する。
 最後に御味御付けを嚥下しながら、三平はぼんやりと頭に浮かんできたある女童の顔に眉を顰めた。その女童はこの村から三つ山程超えた麓の小さな村にいる子供だった。
 三平は薬屋として山間の村々を回り歩いては病人に薬を売歩いているのだが、病人を診る事を頼まれるときもあった。もちろん救えないことの方が多い。薬を出して医者を呼ぶまで保たせるぐらいしかできないのが常だ。
 あの村にいた女童にも何一つ手を施すことはできなかった。あの女童には薬を出しても意味がなかったのだ。
 あの子供は、普通では無かったのだ。
「どうされました。何か困りごとでも」
 どうにも解せないあの時の事を憂いていた三平に淡々とした声が降り掛かった。顔を上げた三平の前には何時の間にか徳利を手にした佐吉がこちらへ猪口を差し出している。三平がそれを受け取ると、佐吉は猪口に酒を注いでから手酌した。
 じっと注がれた酒の猪口を見たまま、考えこんでいるのか三平は黙りこくっていたが、徐に猪口に口をつけて一つため息を吐き、仄暗い目を佐吉に向けた。
「ありゃぁ俺がどうにか出来るもンじゃぁなかった」
 開いた口から洩れた言葉には、諦めが色濃く現れていたが裏には腑に落ちないという思いが見え隠れしている。
 行燈の方を見ていた佐吉は酒を仰ぐと三平へ視線を移した。