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 ぽっかりと空いた穴だった。
 不思議な位に真っ暗で、墨を塗り固めたように黒くて、深さも広さも全くわからぬような、穴だった。穴は、お祖父さまの指の先、左の手の真ん中の指の先に空いている。一寸足らずの小さな穴なのだ。しかし穴の中は真っ暗で不思議な事に奥が見えない。
「ジ、イ……おじい、さま……」
 ぐじゅりと鼻を啜る音が室に響く。暗くて湿気った、空気が辺りをまとっていた。あぁ、鼻を啜ったら耳が悪くなると、母さまに怒られてしまう。だめよだめよ。お祖父さまだって、いい顔しないのだから。お祖父さまだって。
 珠代は後から後からぽろぽろ、ぽろぽろ、瞳から出ては鼻先を伝い着物を濡らす涙をこらえようとその小さな両手で顔を覆う。しかし、珠代の掌には余りある想いが指の隙間から零れ出てはぽたぽたと染みを作っていった。
 昼過ぎ、義満が亡くなったと知ってから、珠代はもうずうっと泣きじゃくっている。青ざめた顔のまま忙しげに走っている父の代わりに泣いているのかと思う程ずっと、ただ一人、部屋の隅で泣き濡れていた。珠代の母も葬儀の準備で駆けずり回る父の手伝いで、珠代と共にいることはなく。屋敷の者も慌ただしく立ち働いているから珠代の傍にいるものはいなかった。
 頭の中に祖父の顔がふわふわと浮かんでは消えてぐるぐると回り続け、珠代のすすり泣く声はいつまでたってもおさまる気配が無い。それを知ってか知らずか、いつも珠代の話し相手になっている園丁の六助や飯炊きの伊世さんも、どこにいるのやら珠代の前には現れない。室の中にいるのは珠代だけで、自らのすすり泣く音が尚更独りを寂しく思わせた。安穏として温かだったお屋敷が、にわかに冷たい見知らぬ場所の様に感じる。目尻に皺を寄せて笑うお祖父さまはもういないのだ、と再びふいに思い浮かぶだけで、珠代はどうしようもなく張り裂けそうな痛みに魘われるのだった。
 こんなときに、ミヨがいたらずっと傍にいてくれるだろうか。山里を越えて遣いに行っている懐かしいミヨの姿をぽつりと頭の隅に思い描く。どうして今いないのだろう。父さまも母さまも忙しいのに、二人から頼りにされているミヨがいなくては駄目ではないか。半ば八つ当たりといった具合で、死んだお祖父さまと今は遠く遣いに出ているミヨとを思いながら珠代はおんおんと泣き続けた。
「うっ、うう、うぁぁっ」
 洟をすすった音と自分の声に、ふと何か音が混じって聞こえた。
 聞き間違えかと思ったのだが、何度目か変な音を耳にした珠代は自分では止められないほどしゃくり上げていた涙と吃逆がはたりと止んだのにも気付かず、静かに耳を澄ます。
 どこから、聞こえてきたのだろう。
 ――……、ん。
 ――……ぉん。
 耳を澄ませばやっと聞こえるような音が、どこからか不思議にもはっきりと耳に届く。珠代は泣きはらして紅くなった顔のまま、眉を顰めて音に聞き入る。何とも形容し難い、否、この屋敷では一度も、外に出た時にでさえ聞いた事の無い音がしていた。鳴き声、だろうか。
 行燈に灯が灯されずどんどんと暗闇が深まる室の中、只々珠代は耳を澄ます。どこからか、と巡らせていた視線は閉ざされており、濡れた睫毛が時折ぴくりと動く他、珠代は微動だにしない。目を瞑って音だけに集中してから、やっと珠代の耳に鳴き声らしい音が響いた。

 ――ここぉん、ここぉん。

 随分と近くから聞こえた音にハッとして目を開けると、規則的に聞こえていた音は途端、聞こえなくなってしまう。
 どこからきこえているのかしら、不思議に思って珠代は再び目を瞑る。
 ――ここぉん、ここぉん。
 妙な音である。今度は開きたくなる衝動を我慢して、ぎゅっと目に力を入れ、耳を欹てた。

 ――ぉん、ぉおおん!
「ひゃぁ!」
 突如、耳のすぐ横で大きな音がして、生臭い息が吹きかけられたものだから珠代は目を見開き、横に飛び退いた。
 どくどくどくどく、破裂しそうな程心の臓が鳴っている。
 嫌だ、今の、何。何かしら。
 今確かにすぐ横にいただろう何かの姿を明かしてしまいたかったのだが、珠代の目では暗闇に包まれている辺りの様子を伺うことは出来ない。まだ近くであの音が鳴っている気がして珠代は恐る恐る、尻餅をついた状態で後ずさりをしながら深呼吸をした。
「だ、誰か、いるの……?」
 伺う様に出した声は張り付いた喉からでた想像以上に弱々しくか細い声だった。しん、と静まり帰った室内から返事は無い。本当に、自分しかいない筈のこの室から音が聞こえたのだろうか。勿論、使用人の誰かが悪戯でこんな事をする訳が無いのだし、とても近く、肩と肩が触れ合うくらい近くで聞こえたのにと珠代は訝しがる。それに、はじめて耳にした音だった。あんな音、聞いた事が無い。
「ね、誰か」
 もう一度小さく呟くが、再び音がする事は無く。真っ暗闇の中で珠代は目を瞬かせてみる。外はもう夜の帳が下りている頃だろう、室に横たわる暗さが教えてくれた。自分の声しか響かない室内に、聞こえた筈のあの音は夢だったんじゃないかしらと思いはじめれば、どうしてか、信じ難いものと思えてくる。
 何か聞き間違えたのだわ。泣いていたから、真っ暗だったし、もしかすると転寝でもしていたのよ。
 納得いく説明がつかず珠代が自らにあんな音は夢であったと言い聞かせていると、廊下を踏む聞き親しんだ足音がこちらへと向かってくる。足音が角を曲がってくると障子戸の向こうにぼやりとした灯りが現れた。
「珠代お嬢様ァ、いらっしゃいますか?」
 明るく通る声が障子戸の外から呼ぶ。珠代はふっと、心から安堵して立ち上がると答える。
「六助、いるよ」
「あぁ、よかった。いらっしゃった、お嬢さん」
 珠代が六助の持つ灯りを頼りに障子戸を引き開けると、きりりとした顔に少し笑みを含ませた六助がいた。手提げ行燈を手に、目を細めながら言う。
「夕餉になっても出てこられないから皆心配しておりましたよ」
「う、うん。ごめんね」
「いいえ。灯をつけにいくのにも手が回っておりませんで、お暗い中大丈夫でしたか」
 もう、夕餉時だったらしい。珠代は自分がどれだけ長い間あの室にいたのかわからなくなっていた。気付いた時にはあの室は真っ暗だったのだ。奇妙な声が、珠代の感覚を不明瞭にしているようだった。
 大丈夫かと聞いてくれた六助には隠し事をしているようで気が引けたが、いくら日に一度は言葉を交わす仲とはいえ、六助にあの奇妙な声のことを聞いてみるのも気が引ける。お祖父さまが亡くなって只でさえ慌ただしい時に、あんな可笑しな出来事を六助以外にだって喋ってはならぬと思ったのだ。
 あの奇妙な音の正体も気にかかったが、珠代はしゃっきりと頷き返す。六助もそれを疑わず、やっと泣き止み気丈に振る舞う珠代の背中を押して歩いた。
 真っ暗な暗闇が屋敷の外を覆い、閑かな夜がやって来た。
 六助に連れられ茶の間に戻った珠代は一人茶の間に座り、箱膳に並ぶ食事をつつく。いつもであれば共に夕餉をとる母さまは、忙しくて夕餉を後にするらしい。
 泣きはらして腫れぼったい目が視界を狭めているようで、再び一人となった珠代は胸に膨らみ続ける酷く重苦しい悲しみと、あの奇妙な音がまだ頭の中でぽつりぽつりと木霊していて、まともに食べている気がしない。やっと止まった涙が不意に流れ落ちそうに思えて、ぼんやりとした頭を抱えたまま早々に食事を終えた。
 屋敷にはお祖父さまが亡くなったとの報を受けた近親の者が宵の口頃から訪れていた。珠代は夕餉を頂く前に、人が来ているのだと厨の者から聞いて知った。
 夕餉を終えて早々に、お祖父さまの眠る室近くに行ってみれば、父さまが疲れた顔をして珠代の頭に手を置いてゆっくりと撫でた。奥の座敷で布団に横たえられたお祖父さまを、明日になるまで線香の火を絶やさず見守るのだと父さまは言う。
「珠代、もう眠りなさい」
 珠代は父さまの言葉に従って、お祖父さまの横たわる座敷の隣室に母さまと共に布団を敷いた。布団に寝転ぶと母さまは掛けを首元まであげて、珠代におやすみね、と言って珠代の額にひんやりと冷たい手をすべらせる。冷えた母の手が撫でるごとに、額から逆上せている様な感覚が心地よく吸いあげてられてゆく。珠代はもう何も考えることなく、静かに眠りへと誘われていった。もうじい様の顔も何も珠代の頭には思い浮かんでこなくて、涙がながれることもなかった。

 珠代が目覚めたのはまだ月が空にかかっているうち、夜半のことだ。
 ふっと目が覚めた珠代は目蓋を開けた。お祖父さまの眠る座敷に置かれた行燈の光が襖から細く線になって寝間の一部を照らしていた。そっと横を覗き見れば、母さまは敷かれた布団に横になっている。寝息をたてているから呼んでも起きないだろう。
 身を起こし、珠代は光源である奥の座敷へ通ずる襖の隙間を覗き見た。襖の奥にはお祖父さまが色の悪い両手を胸の辺りで組んで布団に横になっている。こちらからでは横顔しか見えぬ父さまと、細く白い香煙をあげる線香があった。
 父さまは、眠っているようだ。腕を組んで座ってはいるが、父さまの瞳は閉ざされていた。近くで煙をあげる線香の丈はごく短くなっているから、また火が消える前に新しい線香をあげるのだろう。
 珠代はそっと襖から離れて立ち上がる。疲れきっているらしい母さまは珠代が室を出る音にも気付かなかった。
 暫らく夜に目がさめたことも無かった珠代は、久しい夜の静けさと影に不気味さを感じていた。夜というものは不気味で恐ろしいものだという思いが珠代の中にはまだあるのだ。不気味というのが何であるか、きちんと言葉にして言うことはできないのだけれど、例えば暗闇の向こうから何かが自分を見ているようなそんな視線を感じて珠代の小さな背中が自然と強張る。
 夏に親類の従兄妹が泊まりにきた時は夜遅くまで怖い話を聞かされて身まで凍る思いだった。でもあの時は夜中目が覚めてもミヨがいたし、屋敷のどこかしらに灯りはついていたし、夜なべをしている者がいたから怖さも今ほどでは無かったのだ。
 珠代は何だかわからないものが怖かった。だから、寝惚け眼をそれ以上覚醒させて暗闇の向こうに何かを見つけてしまわぬように顔を伏せて廊下を歩き、厠まで向かう。
 廊下を踏む音もなるべく小さく、無風の外からは何の音も聞こえないから自分の足音まで潜めてしまう。見知った家であるのだ。けれど、どこか知らないところのように感じてしまう。小さな頃はこれが怖くて、母さまが横にいないとき布団から出られずに漏らしてしまったこともある。しかし、朝になれば怖いという思いもするりと嘘みたいに消えてしまうのだから不思議な話である。
 漏らした頃と変わらず今も辺りが気になって厠へ行くのは気が重かった。誰か一人でも起きて一緒にいてくれれば心強いのだ。
 でも、今は誰もいない。何の音もしない。
 皆、寝静まっている。
 裏口の戸をあけて、草履をつっかけた足は厠まですぐそこだというのに家の中を歩くよりも焦っている。寝間から離れるごとに怖さが増して、珠代は急ぎ足になった。夜の闇は暗くて辺りは本当に薄らとしか見えない。転ばないよう気をつけながら半ば駆けるみたいにして珠代は厠へとついた。
 厠をすませ、いくらかほっとした面持ちで裏口へと歩きはじめる。用が済めば多少は落ち着くものの、暗闇は相変わらず不気味な何かの姿を隠しているようである。来る道よりは夜目がきいて周りの様子が見えるようになってきた。屋敷の壁や、裏口を過ぎて向う側にある庭木が首を揺らしているのが見えた。丁度この時期には美しく緑を茂らせ庭を彩るはずのそれらが夜の闇に塗り替えられてしまうと驚くほど違う生き物に思える。
 裏口にたどり着く数歩前だ。
 奥の庭木の影に、ナニカがいた。
 はじめ、珠代はそれを石か何かかと思った。しかしよく考えてみればそんな所に石が無いことは珠代がよく知っていることだったし、誰かがあそこに石を置いたとも思えない。そこまで考えついて、珠代は背筋に冷たい水を流し込まれたように身体を硬直させた。あそこに何かが在ることは、おかしいのだ。
 石のように見えるあれは珠代の膝より下ほどの大きさで闇の中にあっても黒く、一切の光を通さないのっぺりした黒だった。月明かりのささない裏口の近くで、珠代は恐ろしさにかたまって顔を真っ青に染めている。何故これほど恐ろしいのかわからなくて、けれどとても恐ろしいことだけはわかっていた。
 珠代の首筋をツゥと伝った冷や汗にはっと意識を引き戻される。
 あれに気付かれぬように、早く寝間に戻らなければ。気付かれてしまっては恐ろしいことになると、震える足を慎重に動かして裏口の前へ進む。一時もあれから視線を逸らさずにいた。余所見した途端、あれに気付かれてしまうのではないかと思うと、怖くてとても目を逸らすことなど出来なかったのだ。
 戸口の前に来てもあれは消えてもいなかったし場所を変えてもいなかった。変わらぬまま庭木の影にいる。珠代はそっと裏口の戸に手をかけてゆっくり力を入れて戸を引いた。
 ギィイ。
 珠代がその音にどれだけ肩を鳴らしたことか。古い屋敷の裏戸は音をあげて開いたのだった。珠代はばくばくと胸を打ち叩く心の臓に気を失いそうだった。今ばかりはあちらに、顔を向けたくない。あれが、石であれば良いのだ。ただの石の影にびくついていたのなら朝になって正体を見れば笑えたことだろう。珠代は凍ってしまったかのように痛む首筋を無理矢理あちらへ向けてみた。
 見なければよかった! 見なければ良かった!
 珠代がどんなに後悔しても先には立たず。
 庭木の向こう側にいたはずのあれは、屋敷の近くへと移動している。段々と珠代いる裏口の近くへと寄ってくる。完全にあれは珠代に気付いているようだった。
 あれを屋敷に入れては駄目だ。あれと近寄っては駄目だ。早く、早く逃げなければ。
 珠代は震える手で音をたてて開いて隙間を作っていた戸を勢いよく開き、中に飛び込んで後ろ手に戸を閉めた。暫くは戸に背をつけたままじっとしていたが、やがて胸を打ち叩く鼓動が大人しくなってからずるずると腰を落とししゃがみ込む。
 板戸を挟んで外側にはあれがいるのだろうと思うと恐ろしくてたまらなかったが、震えはおさまっている。珠代は戸に耳をつけてみた。外から音は何も聞こえず、あれがいた気配すら無いくらいにひっそりと静まり返っている。
 音がしないことも不気味だが、一先ず珠代は立ち上がって寝間へ戻ることに決めた。
 廊下を歩く間中、後ろがそわそわして仕方ない。あの黒いのが後ろを振り返ったらすぐそこにいるのではないかしらと思わずにいられなかったのだ。
 寝間に着く前の曲がり角で珠代は壁に背を寄せると元来た方を覗いてみた。暗がりの中には木の廊下がずっと続いているばっかりで、何もいない。ハァとため息を零して視線を外した瞬間、何もいなかったそこに黒い何かがいたように見えた。急いでまた廊下を見るも、何かがいたように見えた所には何もいない。廊下ばかりでなく天井も見てみるが、やはり何もいない。今度ばかりは見間違いだろうか。壁から背を離して寝間の方へ向き直る。
 いた。
 黒い何かがしゅるりと跳ね上がり暗闇へ没したのを珠代は見てしまった。
 寝間へ向かう廊下の先に黒くて細い何かが、確かにいたのである。しかしそれはすぐに暗がりへと姿を消してしまい、既にいない。あれは漬物石くらいの大きさだったから裏口で見たのとは違った。
 あれがいたからと言って進まないわけにも行かず、珠代は怖さを隠してあれがいた廊下を小走りで駆け抜け寝間へと一直線に向かう。背後に感じる何かの気配や視線も無視して珠代はついに振り返ることをせず寝間の襖の前へと着いた。寝間の襖に手をかけ、些か乱暴に襖を開ける。襖がわずかに摩れる音がしたがそれ程大きな音ではなかった。誰かが起きたらしい音はしない。珠代は布団で眠る母さまに駆け寄り母さまの肩を揺らした。
「母さまっ、母さまっ、ねぇ母さま、起きて、起きてください」
 声をあげ珠代は母さまの肩を揺するが、母さまは少しも起きる様子は無い。珠代がどんなに肩を強く揺さぶっても母さまは目蓋をひくりと動かす事もなく身動ぎ一つせず眠っている。
 珠代は誰でもいい誰かに起きて欲しかった。起きて自分に何もいないのだと教えて欲しかった。あれは珠代の見間違いであるのだと、そう言って欲しかった。こんな真夜中に起こしたからと叱ってくれてもいい、とにかく誰かと話したかった。でなければ怖くて怖くて、珠代にとっては朝まで眠れずに布団に潜り込んだまま震えているのは余りにも忍びないことだった。
 薄明るい行燈の光が細く洩れ出て珠代の頬を照らす。
 そうだ、父さまならきっと起きて下さる。
 目覚めぬ母から手を離して珠代はすっと立ち上がると奥座敷の襖を開いた。奥座敷には布団の上で横たわるお祖父さまと腕を組んで線香を見守っている父さまがいるはずだった。
「父、さま?」
 お祖父さまの枕元に座っていた父さまの姿が奥座敷のどこにもない。どこかへ行かれたのかと珠代はそっと寝間とは違う方の襖を開けたが、真っ暗闇の中に人影は見えなかった。襖を閉じ、お祖父さまの眠る布団へと視線を移すと煙が上がる線香が目に入った。まさについ先ほど燃え尽きたのだろう線香は橙色にともっていたのだたろう火を灰色に変えようとしていた。
 誰かが奥座敷に戻る音は無い。静かすぎる座敷に、珠代は白い布で顔を覆われ布団に横たわるお祖父さまと二人きりである。開け放したままの寝間を見ても母さまの姿は襖に隠れて見えなかった。
 ふと、珠代の視線はお祖父さまが胸の上で組んでいる色の悪い両指に吸い寄せられる。珠代のいる方から見えるお祖父さまの左手の指先に。
 ぽっかりと空いた穴だった。
 不思議な位に真っ暗で、墨を塗り固めたように黒くて、深さも広さも全くわからぬような、穴だった。穴は、お祖父さまの指の先、左の手の真ん中の指の先に空いている。一寸足らずの小さな穴なのだ。しかし穴の中は真っ暗で不思議な事に奥が見えない。
 ぽとり、とお祖父さまの指が落ちたのかと珠代は思った、がすぐにそうではないことを理解する。
 お祖父さまの指先にある真っ黒な穴から、黒い、黒い何かが落ちて来たのである。
 黒い何かは布団の上に転がると小さな丸からしゅるりと広がると、伸びをするかのように動いた。人の指の半分ほどの大きさだ。珠代が黒くて小さな何かを見呆けていると、ぽとり、また同じくらいの大きさの粒が布団に転がった。転がった黒い何かは先ほどと同じようにしゅるりと広がる。広がったかと思えばまたぽとり、と落ちてくる。
 あっという間にお祖父さまの指先は真っ黒になり、あたかもお祖父さまの指先から固まった墨の筒が伸びているみたいに止めどなくぽとりぽとりと黒い何かが姿を現す。黒い何かがいっぱいになって布団をどんどんと埋め尽くしていく。お祖父様の腕も黒い小さなものが蠢いて隠してしまった。黒い何かは毛虫や芋虫のようにうねうねと動き回っている。
 珠代は声も出せずにへとへとと座り込んでいた。
 あぁ、これは、これでは、まるであの黒いものがお祖父さまの身体の中いっぱいに詰まっているみたいじゃないの……!!
 黒い何かは布団いっぱいにぽとぽと落ちて広がると、お祖父さまの胸の上まで乗り上げてうねうねと動き回っている。お祖父さまの首も腕も胸も皆黒いものに隠されてしまって、見えるのはお顔を覆う白い布とわずかに足下くらいである。胸が悪くなる光景だった。
 珠代は気持ち悪さと信じたくない光景に圧倒されて目を背けることも忘れ、黒く蠢くものをただ見ていることしか出来なかった。
 やがて、広がっていた黒は一所、お祖父さまの腹の上辺りで木上りをするみたいに動きを変える。一つの木に何匹もが群がって登ろうとしているみたいで、幾匹かは他に阻まれて落ちて、また登る。落ちたものは登ろうとするものの陰に飲み込まれどれがどれやら見分けもつかない。木も棒もないそこにあっという間に形が出来上がろうとしている。
 あの、形は。
 珠代は思い出した。
 お祖父さまの枕元にあった線香は疾うに燃え尽き、白い灰がぽろり、と落ちた。