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 懐かしい味だ、と三平は思った。
 幼い頃、今の自分と同じ様に薬屋を商いとして各地を回っていた父が、土産にと買ってきてくれた菓子があった。砂糖を水に煮溶かして煮詰め、火から下ろしたものを冷やしてから整形するのだ。都に行けば見事に細工してあるものも見かけるが、庶民の手に届くのは簡単に丸く固めてある。家でも砂糖さえあれば作れないことは無いが、砂糖は易々と手に入れられるものでもない。縁日や行商人なんかが時たま売っているのを見る、有平糖と呼ばれる菓子だった。
 屋敷に留め置かれたままの三平は珠代の具合を診ること以外にこれといって成すことがない。屋敷を出ることも憚られるし、もうずっと臥せっている珠代の具合は決して良くなっているとは言い難い病状であるからなおさら何をするとも思い浮かばない。
 しかし珠代本人は、調子が悪いときもあれど暇らしく、三平もそれをわかって話せるときには珠代の話し相手になるようにしていた。使用人は家の仕事を成さねばならないから、話し相手も遊び相手もいない珠代は退屈仕切っていたのである。珠代にとって、屋敷に留まっている三平は恰好の話し相手だったのだ。とはいえ、三平も四六時中珠代の傍にいるわけにもいかないから、大体がおやつ時のことである。
 屋敷の者が手間をかけ、珠代のもとに持ってゆく菓子はとても並の家では食べられないものが多い。村で暮らす子供らからしたら、垂涎ものであろう。自らの分も用意されている菓子を食べる度に、美味いと思いながら三平はどこか申し訳なさを感じていた。身に余る待遇というのは慣れも関係なしに萎縮してしまうものだ。
 昨夜の晩のこと、三平がはじめてここに呼ばれたとき以来に暴れ狂った珠代は、暴れ果てて朝方になるとぷっつり糸が切れたように眠りはじめた。昼過ぎに目覚めた珠代は腹が痛いと泣き出し、三平が煎じた薬を飲ませようとやっと一息つけそうなところである。
 三平が煎じ薬を作っている間に珠代は棚から小さな包み紙を出してきて、薬湯が出来上がるのを待っていた。煎じ薬を苦い顔で飲み干した珠代は布団の横に置いていた包み紙を三平に差し出す。
「三平さん、これ食べて下さい」
 何かと思えば包み紙の中には固飴が包まれていた。
「珠代はいらねのか」
「うん。三平さんが食べて」
 少し悩んだがせっかくくれるという言葉を無下にも出来ず礼を言って三平は飴を口に入れた。
「わたし、またねむってしまうから、三平さんに食べてもらえてよかった」
 うっそりとした顔で笑みをつくって珠代は言う。口の中の甘みがどうしてか苦く感じた。
 珠代の目の下には黒い隈がくっきりとあらわれており、余り眠れていないことはすぐ見てとれる。おまけに涙で腫らした顔が痛々しい。薄らと開けている目蓋を見かねて、三平は言った。
「寝られてねンだから、少し寝ろ」
 ぼそりと吐かれた言葉に珠代が口元を緩く綻ばせた。
「三平さんも、夕べからわたしのせいで、寝られていないのでしょう?」
 気が違えたようになっていた珠代に気付いた使用人に起こされ、一晩中起きていた三平が睡眠をとれていないというのは事実である。
「寝た。珠代が少し寝った時にな。だから寝られるときに寝とけ」
 珠代の枕元で薬箱に器やら何やら道具を片付けながら三平は言う。薄目を開けたままの珠代は暫く黙ったまま三平のそんな姿をじっと見ていた。
「三平さん」
 鈴の転がるような声も、今は元気がない。片付けの手を休めて、三平は珠代になんだ、と問うた。
「わたし、」
 珠代は何か、形容し難いものを伝えようとしているみたいに記憶の糸を手繰りながら言葉を紡ごうとする。三平はじっと言葉が出てくるのを待った。
「あの、三平さん」
 三平の名前を呼んだ珠代が一度唇を噛み締めたことを三平は知らない。
「……、わたし。聞いてほしいことが、あるんです」
 言い淀んだ後にやっと振り絞られた声はわずかに震えていた。振り向いた三平と珠代の目線がかっちりと重なる。珠代の幼い頬は蒼白に染まっていた。
「夢話だとおもっても、いいんです。でもね、……わたし、ほんとうにみたの」
 瞬間、酷く虚ろな瞳を揺らして珠代は言った。その目は三平を映しているというのに何か別のものを捉えている様で、三平はひやりと冷たい手に背を撫でられた気がした。
「なにを見たってんだ」
 ぞろりと這い上がってくる冷たい空気は、春先と言えどこの季節には似合わない。障子戸の向こうに広がっているであろう陽射しが恋しくなる。この室だけ、真冬に返されたように寒い。
 三平から視線を外し、天井を薄っすら開けたままの瞳で見つめながら珠代が切り出した話というのは珠代の亡き祖父、義満の事だった。
「まだ、お祖父さまが生きていらっしゃったときのことなのですけれど」
 湯治から帰ってきた祖父は隠居したとはいえどもまだ達者であり、商いの様子を見たり趣味の骨董を眺めたりとのんびり過ごしていた。よく町まで出かけては馴染みの骨董屋に出入りしたりもしており、隠居してからは家業へ向けられていた熱が骨董へと偏り無く注がれることとなった。
 商いで忙しい父母に変わり、幼い頃から珠代をよく見てくれていた祖父に珠代は懐いていた。祖父も祖父で一人だけの孫を可愛がった。珠代にとってミヨは母同然であったが、昼間は忙しくて話す時間も無い。珠代はミヨに暇が無い間、可愛がってくれる祖父の元で昔話やら旅話やら祖父が持つ骨董の話なんかを聞いて過ごしていた。
 家族から大事に大事に育てられている箱入り娘であった珠代には、村に遊び友達などがいるわけもなくて、屋敷が生活の中心にあり全てであった。そんな珠代は外と隔てられている分、屋敷に入ってくるものに興味が湧く。父母への訪ね人でも、外から帰ってきた使用人の与太話でも何でも気になるのだ。
 専ら祖父の蒐集している骨董は珠代にとって興味の対象であった。
「お祖父さまのあつめていた骨董のある蔵、三平さんはみましたか?」
「いや、見てねェが」
「蔵いっぱいにね、あるんです。わざわざ骨董のために蔵をひろげたくらい、たくさん」
 骨董を置いた部屋があるとは聞いていたが、蔵いっぱいになるほどあるとは思っていなかった三平は内心舌を巻いた。だが恐らく祖父、義満が亡くなってからは広い立派な蔵も誰かが繁く通うことはなくなってしまったのだろう。
「その蔵にはお皿とかかがみとかたちもあるんですけれど」
 誰も入らぬ蔵に皿や鏡や太刀がひっそりと並ぶ画が浮かぶ。
「壺を、お祖父さまがもってかえってきたときです」
 壺、だ。
 女中たちが交わしていた噂話が三平の頭を過った。まさか、あの話が本当だとでもいうのか。
 目の前でぽつりぽつりと話す珠代の目は、もう三平を見ていなかった。閉じそうな目蓋の奥にある瞳は天井の染みをなぞっているだけだ。
 三平の耳には珠代の声がじわりじわり、水を吸う紙のごとく染み入っていた。
「わたし、空が明るいうちはよく蔵にいきました」
 骨董の手入れに殊更気を遣っていた義満だったが、可愛い孫ならばたまに蔵へ入ることぐらいは許していたらしい。
 祖父がたいそう満足げに話していた壺が気になった珠代は、その日蔵に向かった。
 屋敷の裏に山を背にしてひっそりと建つ蔵は義満に言いつけられた使用人が綺麗に手入れしているだけあってか陽光の遮られた暗い中でも不気味に感じることはなかった。ただ、珠代は日が暮れてからは絶対に蔵には近寄らないようにしていた。子供というのは往々にして人気のないところを怖がるものだが、珠代もその通り怖かったのだといった。
 蔵の鍵はいつも義満の室に置いてあり勝手に拝借すれば誰であれ義満に大目玉を食らう。しかし義満に何を告げることなく鍵を拝借した珠代は一人、蔵の中へと入った。
「お祖父さまがいっていた壺が、どれかは、すぐにわかりました」
 蔵に入ってすぐ、手前にその壺は置かれていた。口が狭い、少し煤けた色をした壺だった。黒と褐色が混じった色をしていて、珠代には到底綺麗とは思えぬ壺である。義満は十人が見れば九人が揃って奇妙だと言うような、皿や壺、瓶を集めていたからこれも義満の目からは惹かれるところがあったのだろう。
 並べられた品々の中で、手前に置かれている壺は他に幾つかある壺とは違ってどれも同じ暗さの中にあるというのに、その壺だけいちだんと濃い薄暗がりの中にあるような感じがする。土などついているはずはないが湿った土の匂いが珠代の鼻孔をかすめた。
 珠代がその壺に近づいてみると、壺は珠代の膝丈よりある存外大きなものだった。珠代一人では抱えられないだろう。壺の口は掌を広げたくらいの大きさだ。上から覗いてみたが壺の中は真っ暗闇で何も見えない。昼だから灯りをもって蔵に入ったのではなかった珠代は壺の中を照らせるでもないしと蔵から出ようと思った。
「そのとき、お祖父さまがきました」
 珠代が蔵の戸を振り返ったとき丁度戸が開かれて外に義満が立っていた。骨董の扱いには五月蝿い義満だったが孫には甘い祖父であった。誰に告げることもなく蔵に入っていた珠代を咎めなどせずに相好を崩し珠代の近くへとやってくる。
「新しく手にいれた壺だ、と」
 義満は一段高くなった板の間に腰掛けると、壺をひょいと持ち上げて膝の間に抱えて珠代に見せる。珠代の視線は壺に注がれていた。
 それから「ちょっとな、この壺の話でもしようか」と義満は言うと壺を抱えたまま話しはじめた。
「どこにあった壺かは知れない。でも、難儀な壺なのだ。誰かをちょっと困らせたりする」
 困らせるってどんなふうに、と珠代は問うた。
「大事に大事にされてきた壺なんじゃ。だから壺を大事にせんと誰かが困ったりする。物を失くしたり、大切に使っていたものが壊れたり……この壺が嫉妬するんじゃな」
 壺が嫉妬するなど珠代には信じられない。でも壺を撫でながら話をする義満が嘘を言っているようには見えなかった。義満は嘘が嫌いだ。
「かわりにな、大事にすれば家は幸せなんじゃと。だから珠代も大事にしておくれ」
「だいじに?」
「そう。間違ってもぞんざいに扱ってはならんぞ」
「うん」
 祖父が言うならそうなのだろう。珠代は頷く。
 義満は珠代が頷いたのを見ると安心した様子で、壺をまた同じ場所に置き、珠代を伴って蔵の外へ促す。
 珠代はその時何かをみたのだと言う。
「わたし、お祖父さまの中指に、なにかついているのが見えたんです。細い煙みたいに、なにか巻き付いていて」
 しかし義満はそれに気付くことも無く、珠代が気付いてすぐ煙みたいな何かはしゅるりと見えなくなってしまったから見間違いだと思うことにしたという。
「でも、ね。蔵を出るとき、あの、あの壺の口に、変な黒いのが、黒くて長細いものがね」
 だらり、と下がっていた。
「それからです」
 はじめは裏口だった。厠へ行こうとしたときに、あの黒いものがひょろりと格子窓から垂れ下がっていた。廊下、居間、厨、ついには寝間の近くでまで、日に日に増えているように、屋敷のどこかにふとした時、現れるようになった。
「現れても必ず消えてしまうんです」
 珠代の前に姿を現したかと思えば珠代が声を上げる間も無く消えてしまうのだと言う。だから、珠代は一度も黒いものがいるのだ、という話を屋敷の誰かにしたことが無かった。そのうちたまに出るくらいで何をする訳でもないのだから構わずにいればいいと考えたのだ。
 屋敷の者も誰一人として黒い変なもののことを話している者はいなかった。
「でも」
 黒いものの影を知らないふりで通していた珠代が、祖父を呼びに義満の座敷に入ったときのこと。
 真っ黒な犬のような形をしたものが座敷の真ん中にいた。
「黒い、犬みたいなのが、いて」
 座敷の障子戸を開いた珠代を黒い塊はゆっくりと振り向いた。
「本当に、はじめは犬かとも思ったんですけど。座敷に犬が入り込むことなんてありません」
 よく、よく見てみれば、黒い塊はゆっくりと微動していた。息をしているのかと思ったそうだ。
「ちがいました。犬みたいな大きさなのに、あれ。小さくて黒い、あの壺についていたものがたくさん、たくさん集まっていて」
 義満の持って帰った壺に、屋敷の中に、ふとした時に姿を見せたあの黒いものだった。
 ひとつにすれば珠代の掌より小さいかもしれない黒いものは、数えきれないほど寄り集まって一所に留まる事無く蠢いて犬らしき貌をとっていたのだ。内へ外へ、ひとつひとつが動き回っている。
「息をしてたのではなくて、動いていたの」
 蠢く様が、呼吸をするように見えたのだ。
 珠代は息を飲んで固まった。屋敷の中にたまに現れる時は小さかったのだ。あの小さな黒い影が、今目の前では数倍の大きさになって、うようよと動く表皮を作っている。
 戸を開けたまま立ち竦んでいる珠代の方へ、黒い影はゆっくりと向かってこようとしていた。
 だらりと真っ黒な舌をのばして、頭を低く垂れ、ぞろり、ぞろりと躙り寄ってくるのだ。目のある位置は身体と同じ黒であるが、妙にぎらぎらと光っていて、しっかりとその両の眼で珠代を捉えている。一気に身体の芯まで冷え切った思いにとらわれる。逃げなければならない。近寄ってはいけない。
「逃げないといけないと思って」
 珠代は突っ立ったままの足を動かそうとしたが、足は縺れ、膝がくずれてへたりと座り込んでしまった。
 喉は焼け付いたように声も出ない。いくら声を出そうとも、音らしい音すらしない。呼吸をしているのかも判然としていなかった。珠代は竦んでいたのだ。
 逃げられぬ珠代をあざ笑うかのように黒い影は生臭い息を吐いて喉の奥から地響きのような低い唸り声をあげる。舌はだらりと伸ばされたままで、時折唸り声とともにゆらりと揺れた。耳まで裂けた大きな口が恐ろしかった。
「食べられるのは、嫌」
 低く垂れた頭がへたり込んだ珠代の顔と同じ高さにあり、だらりと伸びた黒い舌が今にも触れそうだ。
 餌食になってしまうなんて御免だと、逃げ出すこともできず声も出ない珠代は、泣きそうな顔をしてぎっと黒い塊を睨み付ける。睨み付けられた黒い塊は低い呻き声をいっそう大きくあげると、のっそりのっそり、近寄ってきた。何故だか、見たくないのに目を離せなかった。このままあの大きな口が開いて真っ黒な口に飲み込まれてしまうのではないかとただ嫌な想像ばかりが頭をぐるりぐるりと回る。
 嫌だ嫌だ、嫌だ、食べられるのは嫌。
 「珠代や。」と祖父の声がした。
 途端、金縛りにあっていたように動かなかった身体は緊張から解放され、珠代はぱちんと弾かれたみたいに声のした方を振り向き、黒い塊から目を背けた。勢いよく振り向いた先には、茶菓子の盆を手に持った祖父がいた。
 首が動いても立ち上がる気力も無くて、珠代はぐっと唇を噛み締めたまま祖父を仰ぎ見る。
 「どうしたや、そげな所で」と言った義満だったが、蒼白とした珠代の顔を見ると、慌てて盆を捨て珠代へと走り寄る。珠代をしっかり抱きしめて小さな頭を腕に包み込んだ。
 祖父の角張った手が珠代の頭を撫でる。珠代はもうどうしていいやらわからず、祖父の腕に抱かれたまま呼吸を繰り返すばかり。目には溢れんばかりに涙が膜をはっていた。
「気がついたら、もうあの声は聞こえませんでした」
 生臭い息を吐いて低い低い地響きみたいな唸り声が聞こえなくなったのに気づいて、珠代は祖父の肩口から恐る恐る覗いてみた。だが、座敷の先にさっきまでいたはずのあの黒い塊はどこにもおらず、小さな黒い影さえ見えない。はじめからそこにはなにもいなかったように珠代の知るいつも通りの座敷が広がっていた。
 珠代の頭を撫でながら義満は「泣くことない。泣くことない」とひたすら宥めた。珠代は声も発さずに自分も気づかぬうち、ついに泣きだしていたのである。
 語るうちに光景を思い出したのか珠代は天井を睨みつけたまま唇を軽く噛みしめた。
「それから、屋敷の中で黒い塊をみることはありませんでした。お祖父さまのお背中のほかには、です」
 暫くは黒い影を見ることはなかった。しかし数日経ったある時、屋敷から出かけようとした祖父の背に、びったりと黒く細い影が着いているのを珠代は見てしまった。祖父の歩いた道筋を追っているのか、二歩後ろあたりに、あの黒い塊が、いたのだった。黒い塊は尖った両耳をぴんとたてて、耳まで裂けた口を開いていた。
「でも、わたしの方をふりかえったらきえてしまったんです」
 珠代の方を見た黒い塊は振り返ったまま、黒い墨が半紙に染みると同じく土中へと染み消えてしまった。
 再び珠代が黒い塊の姿を見てからは、黒い獣らしき塊は祖父の背後に現れたり消えたりを繰り返していた。今まで屋敷中に現れていた黒い小さなものが、貌を成して祖父の背後を執拗に追うようになったのだ。後を追っているだけで決して珠代や他の家人に寄り付くことはなく。あの黒い影は、祖父の近くに居着いているのだと珠代は思った。
「お祖父さまのお加減がわるくなったのはそれからで」
 脂汗を流して腹痛を訴えたり、寝込むようになったり、それでも蔵には向かう。
「お祖父さまが蔵にいったとき、わたしのぞき見していました」
 近寄りがたくなった祖父が蔵に入って行くのを見て、珠代はこっそりと覗いていた。以前の義満であれば、蔵に入れば置いてあるどの古物にも目をかけ声をかけ、一通り見てから蔵を出る。だがどうしたことか、義満は他の骨董に目もくれずただ一つ煤けた壺を抱えると壺口を撫でてみたりして、暫くしてから壺を元に戻し蔵を出てしまったのだという。義満らしくない行動だった。
「お加減もよくはなりませんし、お父さまは何人もお医者さまをおよびしました」
 その甲斐無く、義満の病状は悪化の一途を辿ることになる。無口になり、室に籠ったまま出てこない。縁側で何やらを睨み付けていたり、全く笑顔を見せなくなった。食も細くなり、たまに食べては腹が痛いと寝込む。医者も手の施しようが無かったらしい。「薬など効かん」と義満は珠代の父にも使用人にも怒鳴り散らす。腹の痛みのせいで義満がとうとう床から起き上がれなくなった。
 義満が床に臥してから、珠代は黒い塊を見なくなったらしい。そっくり嘘のように忘れていたという。
 長く、義満は闘病した。
「それから、お祖父さまは亡くなりました」
 やっと珠代は言葉を切った。乾いた唇は色を失い顔色はいっそう悪くなっている。顔をあげた三平は障子戸を照らす光が淡い赤色を佩びていることに気付いた。もう夕刻に差し掛かっていたのだ。これ以上喋り続けさせては身体に障ると思ったのだが、珠代が再び口を開くことを三平は止められなかった。珠代が見たという黒い塊が、それからどうなったのか聞かねばならないと思ったのだ。
 珠代の話が、嘘ではないと三平はどこかで確信していた。
 障子戸の端に着物の影が見えた。誰かいるのだろうか。すぐに着物の影は壁の向こうへ消えてしまった。
「珠代の祖父様が亡くなって、おさまったンでもねえみたいだな」
 口を結んだ珠代は薄らと開けた目蓋の奥で天井を睨んでいた。三平の言葉にこくりと頷く。
「お祖父さまのおそうしきのまえに、見たんです」
 義満が亡くなったと聞いてすぐ、室で一人泣いていた時に聞いた声。夜半起きて裏戸口近く、庭木の影にいたあの黒い影。後ろを前をついてくる、黒い影。そして、布団に横たわっている祖父の指先から溢れ出した黒い何か。墨が固まったみたいなそれが祖父の胸上で作り上げた貌は、祖父の背後をついて歩き、珠代が座敷で喰われそうになったあれと、全く同じであったと珠代は言った。
 珠代が話終えた頃、外はすっかり暗くなっていた。
「信じて、くれなくてもいいんです」
 三平は聞いた事実に言葉を返せなかった。何か言うべきであろう。しかし、三平の頭の中には珠代を気遣える言葉が出てこないのである。三平はやっと右手を珠代の額にあててゆっくりと動かす。
「あとは、見てねェのか」
「三平さん、信じてくれるの?」
 見上げる瞳はしっかりと三平を見ている。
 打ち明けられたことが良かったのか、悪かったのか、三平には判断できない。これを嘘だと決めつけるのは至極簡単なことだ。かといって嘘だと決めつけても、義満の病も治らず珠代の病状も良くなってはいない今、珠代の言う信じられそうもない夢話を信じてみることが恢復に繋がるのではないかと三平は思った。だから、三平は頷いた。
「あぁ」
 三平がこれを信じる理由は他にもある。三平の脳裏には大きな鳥居の向こうにある屋敷の縁側で書物を読む男が浮かんでいた。もしどうにもならないなら、あの男に聞けば何か答えが返ってくるのではないかと思うのだ。
 鳥居の奥にいるあの男が何を生業にしているかは知らぬ。しかし確かに村の祭りにもあの屋敷前にひいてある石畳が使われていると村の者に聞いたことがある。村の近くの山で騒動があったときにも謎明かしをてくれたのだと百姓の子供が言っていた。佐吉ならば恐らく今この屋敷で義満や珠代の身に起こっている出来事の答えを持っているのではないか。
「夢にね、見るんです」
「夢?」
「真っ暗なところで、こえがして。あのとき聞いたのと同じこえがして、それから急に黒いかたまりが飛びかかってくるの。なまぐさい息がかかって、たべられる、と思ったらわたしの身体中に真っ黒いものがついていて、入ってくるの」
 目や鼻から身体の中に入ってくる。腹が張り裂けそうに痛んで、叫び声をあげようとするところで起きるのだという。
「お祖父さまが亡くなってからは、蔵にいっていなくて。でもあの壺、まだあるはずなんです。でも、こわくて」
 珠代は話すと目尻にたまった涙を布団から出した手でぬぐう。
 十にも満たぬ娘が誰が信じようかというめに合わされてたった一人今まで抱えて来たのだ。怖がるのが正常で、泣きつくのが当たり前であるのに珠代は誰にも言えぬ不安を胸の内に秘め、自分の情態もわからないで暮らしている。
「おっかなくてかまわね。大丈夫だ。怖かったら泣いたらいい」
 珠代の目からは滔々と涙が流れはじめた。やっと腫れが引いたはずの目がまた赤く染まっている。吃逆あげて泣く珠代の姿を見ながら三平はふっと安堵した。ここへ来たときからどこか大人びていた風に見えていた珠代がやっと子供らしく見えたからだ。泣く赤子をあやすように布団の上に手を置くと三平はゆるりと布団を叩いた。珠代が泣き終えて眠るまでこうしていようと決める。
 ふと見た障子の外から、人が忍び歩く音がした。