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 忍ぶ、と言えば夜であろう。
 三平は夜半頼りない蝋燭の炎を手に廊下を忍び歩いていた。
 悪い事をする気はなかったのだがどうしても昼間には言いだせず蔵に向かえるのは夜になってしまった。園丁の六助に蔵の煤掃きをしている者を教えてもらった。何故かと聞かれたが、珠代が言っていたものが気になったからと言って話をはぐらかした。六助はそうですかと言って煤掃きの祐次郎を教えてくれた。
 蔵は今でも鍵が掛けられており三日に一度煤掃きの者が入っている。昼は屋敷の中仕えをしている男で、手先の器用さと丁寧さを義満に買われて煤掃きの役目につかされた。他にも二三人下女が入っているが、煤掃きの長は祐次郎だ。夕刻になってやっと祐次郎が三平の元にやって来た。初めて見る顔だった。一重で薄い顔をした神経質そうな男は柔和な笑みで唇を結ぶとひょっと頭だけ下げた。まだ昼の勤めが残っているからと言ってまた夜に話すことになった。
「三平さん、遅くなって済みませんね」
「いや、無理を通したのはこっちですンで。構わんです」
 祐次郎がさっき会ったときと同じくひょいと頭だけを下げて三平に背を向けた。慌てて三平は追いかけて歩く。
 六助が三平のことを伝えたときに簡単な事情は話していてくれたらしく、祐次郎は何を問うこともなくさっさと歩きはじめてから思い出したように後ろを追う三平に蔵へ行きましょうと言った。逗留人のわがままを早く済ませてしまおうと考えているのか、屋敷のあちこちで聞く壺の噂を見聞きしにきた三平を厭うているのか、祐次郎の礼はあってもすげない態度に、三平は祐次郎がどう思っているかわからないでいた。あまり動かぬ目尻の筋肉が祐次郎の思いを読み取りにくくしているのだ。
 夕暮れが過ぎるとあっという間に屋敷は暗闇に包まれてしまう。人が居る所にしか灯籠は点けぬから蔵への道は真っ暗だ。屋敷の裏手側には人気が無かった。土の地面を踏み歩いた先に蔵はひっそりと建っている。なるほど大きいというのは真実で、暗闇の中では蔵の端から端を見ることも敵わない。
 祐次郎が手にしている変わった形をした鍵で、蔵の戸についた錠を開けた。
 三平は日頃、農村を回って商いをしているからあまり豪華な蔵錠を見たことはないが、金持ちは飾りのはでな錠をつくる。これもそうなのだろう。戸を開けてもうひとつ、落とし鍵を外すとやっと蔵の戸が開いた。祐次郎が中に入って行き入り口近くにある蝋燭立てに明かりを灯す。蝋燭立ては室の四方にもあるらしく祐次郎は順に回って全ての蝋燭に明かりを灯し三平の方へと戻ってきた。
 蝋燭の明かりに蔵の中が浮かび上がる。珠代の話していた通り、蔵に置かれた皿や壺や太刀はどれも綺麗とは思えぬものが多い。だが集まってしまえばそれはそれで重厚な感じを醸し出しており立派に見えた。蝋燭の弱い光が影をより濃くつくっているからだろうか骨董達はいっそう年代を重ねて見える。義満の集めるものが変わっているだけで目は確かだというからここにあるものは三平の齢をとうに越して存在するものもあるのだろう。
 入り口から右手の壁近くに壺があった。
 三平の膝程の高さで黒と褐色の混ざったみたいな色が煤けて見える。
「それ、義満様が一番最後に持ち帰ったものです」
 横にいた祐次郎が視線に気付いたのか壺を眺めていた三平に向かって口を開いた。
 目を逸らそうと思ったがどうしてか逸らせず、三平は壺をじっと眺めたまま祐次郎に言う。
「近くで見てもいいかい」
「……はぁ、構いませんが」
 三平はそっと壺へ近づく。珠代の言っていたことを疑っているわけでなく、信じているからこそこんなに慎重な足運びなのだろう。いくら警戒したとて自分では逃げられる気もしないのだが。あの黒い影というのが壺についていやしないかと三平は壺を覗き込んだ。
 真っ暗だ。
 掌程度の口に似合わぬ大きさの壺である。何に使うのかまるで見当もつかぬ。墨が塗込められたような黒さが壺の中に広がっている。
 三平は持っていた蝋燭を気をつけて壺に翳した。
 壺の奥底は相変わらず真っ暗で、光など通さない様子だ。ただただ暗い、中は常闇である。
「おかしな、壺ですなァ」
 思わず口に出てしまって三平は急いで顔を上げる。祐次郎は入り口の方から動いておらず、無表情な顔で答えた。
「義満様はおかしな物を集めるのがお好きでしたから。ここにある物に凡凡なものは少ないですよ」
 家人にここまで言われるとは相当に変わった物好きであったのだろう。
「しっかしここまで揃うと、見事なもンで」
「これでも少なくなった方なのです。義満様の前から蔵は古物置きでしたから、義満様自身が処分なされて。それでも以前より増えたと聞いております」
 三平はこれでもかと口を開いたまま感嘆の声をあげていた。わざわざ夜中に蔵に案内してもらったというのに気を悪くするような事を言ってしまって少しでも取り繕おうとしていたのだ。祐次郎と言葉を交わしている間にちらりちらりと件の壺を見てみたがこれと言って変わった様子はない。やはり特別な誰かの目で無ければ見えないものなのだろうか。無駄足になったかと肩を落としかけた頃、蔵の外で物音がした。祐次郎と三平の視線は音のする所を向いた。
「母屋の方ですね」
「誰か、きなすったンですかいな」
 祐次郎は入り口に近寄る。足音は蔵の近くまで来ていたが祐次郎が扉から外を覗こうとする前に止まってしまった。外の足音は蔵戸の隙間から光が漏れたことに気付いたようだ。祐次郎は一応開いた戸から外を覗くが、誰も見当たらなかった様子で蔵の中を振り向いた。
「そろそろ、帰りましょう。三平さん」
「ええ、わかりやした」
 無理を言っている身ではここでもう少し見せてくれとわがままも言えず、三平は祐次郎と共に蔵を出た。錠前を入ったときと同じように掛け直し、元来た道を戻る。蔵に向かってきていた誰かの姿は見当たらなかった。
「余り言わないで頂けると助かります。色々聞いていらっしゃるでしょうが」
 蔵の鍵を持った祐次郎は三平を振り向かず言う。三平が聞いた女中の噂話も耳に入っているらしい。
「なんも、騒ぎ立てる趣味はありやせんです。お世話になっとる恩を仇ではかえしゃしませンや」
「ありがとうございます」
「いえ……」
 三平がここへ逗留しているのは珠代の病状を良くするためだ。しかし、もうここへ来て数日経っているが何一つ良くなっていない。一進一退と言えば聞こえも良かろうが現実は緩やかに後退を続けている。あのままであればまた義満と同じく死の道を辿るのだろう。三平はここへ来て何度も強く感じる苛立たしさに歯を噛む。感謝の言葉などこれっぽちも自分に向けられるべきものでは無いはずで、三平には返す言葉が見つからない。下馬評を騒ぎ立てるなど出来る訳もない。
「仲仕えにも気付いているものがおります。珠代お嬢様の身に何かあってからでは遅いですから。どうか内内に」
 屋敷の者が騒ぎ立てて珠代が被る害を切に心配した声だった。わかったと頷いた三平はしかし俯く。
 何も、出来ないのでは無いだろうか。珠代を救うことなど、出来ないのでは無いだろうかと。不安と焦りは強く膨れ上がっていくのだ。薬など一時の気休めにしかなっていないのは薬師をしている自分が一番わかっているのである。蔵で何か見つかるとは思っていなかったが、三平は自らの無力さを噛み締めていた。
 あてがわれている室に帰ってからも目が冴えて眠れない。二日も寝ないでは身体ももたなくなってしまう。寝なければ寝なければと思う度に頭ははっきりとしていくのだった。鷹揚な三平は常から眠れなくなることはあまりない。山を歩き谷を渡りを繰り返していれば身体も疲れて眠れぬ心配などしなくていいのだが、ずっと屋敷に留まっているからか。加えて珠代の病は自らの領分に余るものなのだろうという考えが三平を眠気から遠ざけている。
 三平はむくりと背を起こした。障子戸の外では月が出ているようで、白い障子紙が薄く発光して見えた。頭を掻いて、ため息を吐いた三平は立ち上がると薬箱の中から蝋燭と蝋燭立てを出して蝋燭に火をともす。外の風でも浴びれば眠気も戻ってくるかと思ったのだった。
 障子戸を開けると冷えた外気が室へと流れ込んでくる。寝静まっているであろう屋敷は静まり返っており、三平は縁側に静々と腰を下ろした。月の光は三平の座っている縁側まで届くほどに明るい。これほど明るければ何も怖いものも無さそうである。ぼぅと庭木を眺めていると珠代の話が頭をぐるぐる回りだす。
 ――庭木の影に、黒い塊がいたのです。
 ――黒い舌をだらりと垂らして。
 珠代が本当に話の通り見たというのであれば三平がどうにか出来る話ではない。寺の和尚か、神社の神主でも呼ばなければならぬ。だが、事を面に出したくない屋敷の者があの話を聞いてどうにかするだろうか。ある筈はないと珠代を説き伏せるか、藁にも縋る思いで憑物祓いを頼むのか。
 三平は祓い屋を見た事がない。村々を歩いて薬を売歩いている間祓い屋という存在は聞くことはあれど目にしたことはなかった。あのようなことを生業にしている人は余り外に出てこないのだろうし数も少ないのだろうから、探そうと思わない限りは存在を知ることもないのだ。だが、日に日に衰えていく珠代を前にすれば到底自らの力だけでどうにかするのは無理だ。助けがいる。助けを呼ぶことを納得してもらうには屋敷の者に話す必要があった。
 まずはミヨだろうか。他数人ほどにも話すべきだ。旦那様へ話を通してもらうには使用人に頼む方がいいだろう。
 しかし、三平は人に話すのが苦手だった。自分から事を荒立てたくないという生来の気質が邪魔をする。自分に火の粉が降るまでは大人しく流れに流されるように生きてきた。このまま珠代が死を待つのを見ているだけでも已む無しであろう。だが、解決の緒が見えているというのにそれに顔を背けることは出来なかった。
 ――……ここぉぉん
 半眼で庭を眺めていた三平は耳に飛び込んできた音を理解すると驚いて目を見開いた。
 あの、音であろう。珠代の聞いたあの音だ。
 ――ここぉ……ん
 まただ。聞こえてくる音は三平のいる所からそう遠くない。不思議な音である。獣類の鳴き声に似ているかと言われればそうでもない。鐘が響く音に似ている気もするが聞いた事の無い音だ。
 ――こ……ぉん
 三平は腰を上げて音のする方へ歩き出した。今行って確かめねばならないと思ったのだ。
 廊下はギシギシと音をたてた。近づいているのか遠のいているのか怪しくなったりもしたが、音はずっと聞こえていて三平はそちらへと迷いなく向かうことができた。近づくにつれ音は大きくはっきりと聞こえた。何かわからぬが音がしていることはわかる。これほど大きな音が鳴っているというのに、誰も起きてこぬのか。この音はひょっとして、自分にしか聞こえていないのではないのか。三平はぞわりと寒くなった。
 音へ音へと屋敷を進むと、どうも屋敷から離れた蔵から聞こえてくる気がする。
 裏口の戸を開けて三平は蔵へと歩き出した。手には蝋燭立てだけだ。懐刀の一つでも持ってくればよかったと今更ながらに思った。草履が地面を踏む音が嫌に大きく三平の耳へ届いた。庭木をいくつか越えた所で三平の足は止まってしまう。
 蔵の鍵が開いている。
 祐次郎が蔵の鍵を閉めたのは三平も確認していた。屋敷に戻ってから祐次郎の持っていた鍵がどこにしまわれたのかは知らぬがその後鍵を手にした誰かがあそこにいるということだ。こんな夜更けに。
 鍵は義満の室に置いてあると言ったが義満亡き今どこにしまわれているのか。家人の誰もが使える場所にあるのだろうか。三平は再びゆっくりと足を進めた。蔵戸の鍵は開かれていて、落とし錠も開いている。
 ――ここぉん……ぉぉおおん
 蔵の辺りだ。蔵の中から響いているのでもなくて、蔵の周囲一帯にあの音が木霊している。
 三平は蔵の戸に手をかけて蔵へと踏み込む。蝋燭が照らす蔵の中にいたのはミヨだった。
「薬屋、さま……? どうして」
 壺の横にミヨは立ち竦んで三平の入って来た入り口を凝視している。
「ミヨさん、あんたこんなとこで何しとる」
「いえ……なにも」
 三平を見ていた視線を外すとミヨはばつが悪いをして首を振った。なにもと言ってもこんな夜中に蔵の中にいれば変に思うものだろう。三平はしかし蔵のどこにも黒い影が無かったことに安堵した。
「わっしは音がしたでここに来たんです」
 ミヨに話すならこの機会を逃してはなるまい。三平は信じられなくとも良いという想いでミヨに言った。
「音ですか?」
「けったいな音がしたもンで。何かと来てみたんですわ。ミヨさんは聞こえねかったですかい」
「聞いてはおりませんが。どんな音でしょう?」
「獣に似てはいても、鐘の響きに似た音で」
「獣と鐘?」
「はぁ、何かわからんもんですから。はっきりとは言えねェですけど」
「そうですか、お騒がせいたしまして申し訳ございません」
 ミヨはぺこりと腰を折る。三平も頭を掻きつつお辞儀をかえした。
「構わねです」
 音についてはミヨも知らないようで首を傾げているばかり。あの音は珠代しか耳にしていなかったのだろう。そして珠代は屋敷の誰にも話さなかったと同じ様に一番近しいミヨにも話さなかった。だからミヨは知らないはずである。この蔵にきた用は何であろうか。
「ミヨさんこげな夜中になして蔵におったんです」
 沈黙を挟んで三平が問うとミヨの顔が途端に強張った。口を開いたが言い淀んでいるのか言葉は出てこない。
「義満様がお持ち帰りになったあの、壺に憑いていたのでしょう……?」
「は」
 やっとミヨが話しだしたのは、ミヨが知らないはずの壺に憑いた黒いものの事だった。
「聞いてしまいましたの」
 目線を落としたミヨはため息を吐くと続ける。
「失礼ですが、お嬢様と薬屋様がお話していらっしゃったこと。聞いていたのです」
 あの、着物の裾はミヨだったのか。それではずっと聞かれていたことになる。
「申し訳ございません。お嬢様のお話、聞いて下さってありがとうございます。旦那様にも奥方様にも使用人の私達にも話しにくかったのでしょうから」
 聞かれていたのだ。三平が話さずとも珠代の見たあの影についてミヨはもう知っている。
 だから、この蔵に来た。ということは。
「この壺がお嬢様を苦しめているのなら、この壺を壊してしまえばいいと思いましたの」
 ミヨが顔を俯かせて言ったときだった。

 ――ごおおおぉぉおぉぉゔ

 地鳴りが響いた。蔵を揺るがすような低く重い獣の唸り声である。
「なんだァこりゃ」
 三平は地面が揺れてもいないのに腰を低くしてしまう。
 ミヨが壺に手をかけていた。
「こんな壺! 割ってしまえばきっと……」
 低い唸り声は蔵の中を外をぐるぐると打ち回って勢いを増していく。ミヨが壺を両手に持ち高く上げた。今ここで割るつもりだ。
「だめだミヨさん!! それを割っちまったら」
 慌てて三平が駆け寄ろうとする前に、地鳴りがすっと止んだ。三平とミヨは狐につままれたような顔をして互いに顔をあわせる。さっきまであれほど五月蝿かった獣の唸り声はもう聞こえなかった。何の音もしない、恐ろしいくらいに閑かである。
「ミヨ……!」
 蔵の入口に珠代が立っていた。泣きそうな顔をして、両手がぎゅっと着物の裾を掴んでいる。ミヨははっとして眉根を寄せた。
「お嬢様、どうしてこちらに」
「ミヨ……、ミヨ。いやだよ、壺をこわしたらだめ」
「だ、大丈夫ですよお嬢様。そんなこと致しません。義満様の大切になさっていたものを壊したりなんかしませんよ」
 ミヨは壺を脚元に置くと、珠代を安心させるように言った。だが、本心は揺れているのだろう、取り繕いの言葉であることは明らかだった。珠代は口をへの字に結んで泣くのをこらえているように見える。
「壺をこわしたら、ミヨも喰われてしまう」
 珠代は必死に言うがミヨの表情は浮かない。
「でも、この壺のせいで」
「だってミヨまで喰われてしまったらいやよ。ミヨが死んだらいや」
 珠代がミヨの着物の裾をひいて頭を振る。ミヨは困ったように珠代の頭を撫でて言った。
「お嬢様私は喰われやしませんよ」
「そんなのウソよ。見たもの。喰われちゃうの」
 だが珠代は引き下がらなかった。ミヨを止めようと着物を掴んで離さない。
「どこで見ったんだ、珠代」
 三平が聞くと頭を振ってミヨを引っ張っていた珠代は叫ぶ。
「ゆめでみたの! みんな喰われてしまう。だからだめ! お願いよ、ミヨ。壺をこわさないで」
 夢を見せているのもこの壺がもとであろうに珠代は壺を壊すなという。苦しんでいるのも珠代であるのに壺を壊すなという。珠代がミヨを心配している気持ちは痛いほどわかる分、尚更ミヨは苦しかった。この壺を壊せば壊したミヨは喰われてしまうかもしれないがもしかしたら珠代は助かるかもしれない。そうすれば珠代はまた変わりなく過ごせるのだ。それなのに、どうして壺を壊すことを止められようか。
 ミヨは珠代を憂いた瞳で見つめてから諦めたように壺を抱えると、一、二、三歩、歩き思い切り蔵の床に叩き付けた。
 壺が割れる音と珠代の悲鳴とで真昼最中のように蔵の中は音で溢れていた。割れた壺は破片となっていくつか蔵の床にころがっており、蝋燭の明かりが照らすにも関わらず真っ黒で墨を塗りたくったようだった。
「あぁぁ、あぁ、いやいやいやいやよお」
 悲鳴をあげてからむせび泣く珠代を見遣ればミヨの足下に転がる壺の破片辺りを見ている。
「いやよぉお食べないで、食べないで」
 珠代は泣きながら叫んでいた。髪を振り乱し、必死に食べないで食べないでと繰り返す。泣きながらも前方にある何かから逃げるようにずりずり、と後退しているのである。土が着物につくのも構わず珠代は泣きじゃくる。しかし、蔵の外にも中にも珠代の泣き叫ぶ声が響くだけである。 
 この娘は、何をみているのだ。
 ミヨは蒼褪めた顔のまま突っ立って動かない。珠代は泣くばかり。もし泣くばかりの珠代が怖がる視線の先にあれがいるのなら、あれの進行方向にはミヨがいる。
「ミヨさん、危ねェ」
 三平はとっさにミヨの腕を掴みぐいと引き寄せた。何か、ひんやりとしたものが三平の着物をかすめた気がしたが構ってはいられない。ミヨの手をひきながら泣いて座り込んだままの珠代の腕を掴み立ちあがらせようとする。しかし強固な紐で押さえつけられているかのように珠代はびくともしなかった。
「珠代立て! 逃げるぞ」
 無理に腕をひいても座り込んだ膝から下が何かに縫い止められているように動かない。
「だめよ、いっぱいいるもの。もうだめ」
 しゃくりを間に挟みつつ珠代は言った。目はしっかりと前を見据えている。割れた壺の破片が、ドロリと溶けて下方へ落ちる雨だれの如く珠代に向かって引き寄せられている。
「逃げねェと珠代!」
 珠代は頭を振って三平を仰ぎ見た。
「……ごめんなさい三平さん。わたしがはなしたから、ごめんなさい」
 三平はぎょっとした。こちらを仰ぎ見る珠代の手首から首筋、顔に至るまで蛇のうろこのような紋様が浮かび上がっていたのである。足は紋様に埋め尽くされて真っ黒な墨に漬け込んだようだ。地面から珠代の身体に黒い紋様が染み込んでいく。あぁ、駄目だったのか。間違っていたのか。
「珠代ォ!」
 屈んだ三平は珠代の肩を抱いて名を呼んだ。珠代の黒い眼が血とそっくりな紅を映したかと思うと珠代の身体はくにゃりと力が抜けて三平の腕凭れかかった。紅く見えた瞳はきっちりと閉じられており、いくら三平が名前を呼んでもそれきり開くことはなかった。