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 三平が逗留していた屋敷を後にしたのはそれからすぐだった。
 珠代は喰われるというには至らずに一日を寝通して倒れた次の日に目覚めた。
 目覚めた珠代は何も覚えていなかった。まず三平のことを覚えていない。義満が亡くなったというのは理解していたが自分が病に臥せっていたことを忘れていた。珠代はいつも通り目覚めたはずの自分が病にあったと聞いて首を傾げたのだ。三平に、誰なのかと問うた時は三平も驚いた。
 ミヨはあれ以来蒼い顔をしていて、気力だけを頼りに立ち働いているように見えた。あの時蔵であったことについてミヨは三平相手にさえ一言も口にしなかった。そんなミヨを見ていれば三平もあの日のことを言う気にはなれず誰に何を聞かれても何も無かったと首を振り続るばかり。不可解なことは十二分にあったのだが、珠代の情態は見違えるほど良くなったから誰もそれ以上追求しようとはせず。珠代は夜眠り昼間は以前と同じく活発に動き回る生活に戻れたのだった。
 あの黒い何かがどうなったのか、三平にはわからない。だが病人が恢復すれば医者の為す事はないのだからいつまでも留まっていることも出来ない。三平は気がかりだけを胸に屋敷を出る事にした。
 屋敷の主人には厚く感謝されて金の包みを差し出された。しかし三平はそれだけは譲れないと頑として受け取らずに頭を下げて大きな屋敷を出て行った。
 何故治ったのかなどわからなかった。
 壺を壊したのがよかったのか。それなら珠代に染み入った黒い紋様は何だというのか。何故全て忘れてしまったのか。疑問ばかりが浮かんで理にかなう答えは一つも見つからない。村を出て山を越えて歩いているうちに忘れてしまえれば幸いだったのだが、深く考えてしまう三平に出来る行為ではなかった。
 いつの間にか足はあの男の元へ向かっていた。
 三平が佐吉の存在を知ったのはあの村にはじめて来たときのことである。小さな村で泊まる所を探していると村の者に聞いてみたらあの屋敷を教えてくれたのだ。百姓の家に泊まるよりずっと広くていい、あそこに行くといいと。
 はじめ見たときは神社かと思った。寺に泊めてもらった日もあったから訪ねることは容易い。しかし賽銭箱は無い。鳥居しかない。戸を叩いても出ないことが多いから裏に回るのだと百姓は三平に言った。三平は教え通り、屋敷の裏に回った。
「やあ、いい日和ですね」
 生っ白くてひょろりとした男が縁側に腰掛けていた。名を問うのではなく快よく挨拶をしてこられて三平は少し面食らう。想像していたより歳が若いことも訳の一つで穏やかな物腰も三平があまり見たことの無い人柄であったからだ。
 三平は男に名乗ると村の者からここを教えられたと伝えた。すると男は笑みを浮かべた顔で頷いてどうぞと三平を屋敷に招き入れた。佐吉の屋敷は一人で住むには到底広すぎる大きさで、なるほど村人がすすめる訳である。それから冬を終えると三平は半ば何かに誘われている思いで気付けば佐吉の屋敷に足を向けるようになった。佐吉も一人は退屈だと言って三平が来るのを喜んでいるようだった。
 珠代という女童のことを忘れたい一心もあって三平の歩みはいつもの通り佐吉の元へと向かっていたのだ。

「それは。大変でしたね、三平さん」
 徳利の酒はもうからからに乾涸びていた。三平が目覚めてから佐吉の持って来た飯を食べ終えた後、酒を飲みはじめてずっと三平は胸の内にあったあの女童の事を佐吉に吐露していたのだった。話し終えて落ち着いたところで三平は額に手を当て俯く。急に気恥ずかしくなった。話せば心の重石は外されたように感じるが、あのときの自分を恥じる思いが強かった。
「悪ィ。変なこと話したな」
「謝らなくったっていいです。話せば払拭される思いもあります」
「あぁ」
「思いは重いとも読めますね。ずっと同じ事を考え続けていればいずれ押し潰されてしまうものでねぇ。三平さんが潰れなくてよかったです」
 はっはっはと乾いた笑いをあげる佐吉が本心に思っているかは相変わらずわからなかった。佐吉は平時から笑みを結んだ口を崩さないし目尻を下げているような鋭いのかどうだか分からない目からは、見える事以外何一つわからない。
「もう一本持って来ましょう。飲みます?」
 三平がどうするか迷っていると佐吉は立ち上がってしまった。慌てて頷けば三平はわかりましたと答えて廊下の方へ出て行った。
 徳利を三本とぺらぺらした書物を持った佐吉が戻って来て三平の猪口に酒を注ぐ。
「蔵にあった壺はこのくらいの大きさでしょう」
 佐吉が胡座をかいた自分の胸上あたりの空間を掌で押さえて言う。女にしては背丈のあるミヨが持ち上げて確かそのくらいだ。
「口は掌ほどの大きさです」
「そうだ」
「黒と褐色の混じった色で、煤けていた」
「何か知っとるンか」
「えぇ、似た話を聞いた事がありまして」
 横に置いていた草子を取り上げて佐吉は頁を繰る。草子の面には何の字も書かれていなくて内容はわからない。ある頁で佐吉は手を止めた。
「壺をね、台所の下とか床下に置いておきます。たまに食事や酒を与えるんだそうです」
「壺ってまさか、あンの壺」
「真実はわかりませんが、そうかもしれない。三平さんは見てないと言っていましたがお嬢さんが見たのは黒くて細長い影」
「あぁ。壺から出ったて」
「トウビョウとかソンツルとか呼ばれますが意味合いとしては恐らくトウビョウの方が適していますでしょうね」
 答えが見つからなければ忘れてしまおうと考えていたのにこうも容易く正体を明かされてしまい三平は頭が追いついていかない。
「お嬢さんの家ではもう以前の名で呼ばれるべきものとして存在していなかったようだが、名前で類別するならトウビョウだ」
「どういうこって」
 手にしていた猪口は口をつけられずに三平の手におさまったままで、中に注がれていた酒が揺れていた。あの黒いものに名前があったのか。
「憑もの筋はご存知ですか?」
「きつねとか、が?」
 憑きもの。隣の里が遠いだとか、山奥にあって滅多に誰かが入ることがない村で囁かれる噂と認識していた言葉である。余りに理解し得ないことがおこっている家をそう呼んで忌み嫌ったり村八分したりする。誰かを呪って災いをもたらすだとか末代まで祟ると聞くからいい印象はない。
「広く知られているのはきつねでしょう。犬とか狸とか蛇や鼬なんかも憑くといいます」
「トウビョウってェのも動物なンか」
「蛇とも言われますし狐とも鼬とも。しかし三平さんが見た紋様というのが蛇柄だったというなら蛇かもしれませんね」
 着物の裾から出た真っ黒に染まった足と顔まで広がるうろこのような黒い紋様。紅い色を映した瞳。三平はあの時の珠代を目蓋の裏にはっきりと描くことができた。何かが乗り移ったとしか思えないあの状況で見えない蛇が珠代の中へ入っていったと考えると三平は気味の悪さに頭を落とした。割れたあの壺から出てきたのかもしれない黒い細い蛇の波が珠代に見えていたとしたら。珠代はトウビョウに呑み込まれるところが見えていたのなら、どれほど可哀想なことをしたか。泣きそうな顔で三平を見た珠代に謝らなければならないのは自分だったのだ
「トウビョウは飼いならしていれば家を繁栄させます。主の意志に従って人を害し苦しみを与えるのです。飼いならされているうちは主に背くことはない。ただ、もし祖末に扱われるようなことがあれば直ぐ様主に歯を剥きます。トウビョウに歯向かわれれば家はたちまち零落し最後には潰えてしまう。だから注意を払って扱うべきものでした」
「珠代の家にあの壺がきったから」
「零落したトウビョウ憑きの家にあった家財が商人に目をつけられて売られてしまった。壺は骨董好きな老爺に買い取られた。トウビョウは家を滅ぼした後も壺に憑いていたのでしょう。憑きものというのは器が大事だ。壺さえあればどこまでも生きてゆけるのでしょう。しかしそれが正しい形として生きていられるとは限らない」
 佐吉は猪口の酒をあけると煙草盆から煙管をとって火をおこし吸いはじめた。
「親を失った幼い子供は教えてもらわなければ善悪の判別がつかないのです。主を失ったトウビョウは従うべき指針を失い暴れ狂うだけの災厄に塗れた存在になったのでしょう」
「たまたまあの家で、暴れたってンのか」
「そう。仕方が無かった。トウビョウが憑いた壺だとは誰も知らなかったのですからね。トウビョウも人に害をもたらすことしかしてこなかったから、独りになっても行動は変わらないのです」
 仕方が無いと、それだけで義満を殺し珠代を苦しみに合わせることを許せるかと言えば別である。三平は震える手を下して猪口を置いた。自分の手が不条理なやり切れなさに震えているのか酒に酔っているのかは別がつけられなかった。
「珠代は、どうなったンだ」
 三平の気がかりはそこにある。
 目覚めた珠代は何も覚えていなくて、三平のことすら忘れていた。あれは、トウビョウとやらに乗っ取られてしまったのか。珠代はあのままでいて健やかに日々を送れるのか。三平では判じようが無かったのである。
「お嬢さんは視える人だったのでしょうね」
「みえる?」
「多くの人には見えない存在が、視える人だったのかもしれません」
 付き合いは長いと勝手に思っていた三平だが、佐吉と腹を割って話し込むのは初めてのことだったかもしれぬ。佐吉は三平の知らぬ所の理を解している者のようで、得体の知れなさはそこからくるのだろうかと単純に考えた。
 佐吉は視線を外し、障子戸の方を眺めて暫くしてから口を開いた。
「三平さんは妖とか物の怪と呼ばれるもの等を見た事がおありですか」
 珠代の屋敷に向かう前の三平であれば何を言っているのかと笑い飛ばしていた話題である。三平はそう呼ばれるものを目にしたことが無いから、信じてはいない。せいぜいが童に語る御伽噺くらいなものだと思っていたのだから。今も、信じているとまでは言えなかった。
「いやァ、ねぇな」
 佐吉は笑みを深めて煙管を吸った煙を吐き出した。紫煙がもくもくと佐吉と三平の間に壁を隔てる。
「信じる信じないは別として、世間には居る筈の無い存在を視てしまう者がいるのですよ。三平さん」
 煙の向こうで佐吉が沈痛な面持ちをしているように見えた。目が伏せられているからだろうか、物悲し気な雰囲気であるような気がする。
「視えていたなら後はお嬢さんしだいですがね」
 天井に消えた煙の壁が晴れると、佐吉はいつも通り穏やかな笑みをたたえた表情で三平をじっと見ていた。たった今さっきのことであったのに、佐吉がどんな顔をしていて物悲し気に見えたのか三平は忘れてしまった。
「視ることができれば折り合いをつけることもできるかもしれません」
 佐吉の言っている意味の半分も理解できていない三平だったが、全てが嘘にも思えず佐吉のことだから本当に珠代があのまま恢復してしまうことも不思議では無いかもしれぬと思えてしまった。
「そうかい……。大事無いならいいンだけどもなァ」
 三平はあの数日間で珠代に対してえらく心を寄せていたのだ。いくら具合だけが良くなったといっても目覚めたばかりの覚えがはっきりしていない情態しか見ていない三平にとって不安は募るばかりで、佐吉に話し終えた今も頭の中には珠代の姿があった。良くなればいいのだが。
「いつかまた出向かれてみてはどうです。気がかりも落ち着きますでしょう」
「あぁ、そうだなァ」
 佐吉がくつくつと喉で笑って煙管を盆の上に戻した。視線は障子戸の方にある。
「三平さんの童好きはなかなかのもんですな。これはお嬢さんも懐きますねぇ」
「何言っとるかい。そんなんでねェ」
 三平は顔の赤らみを知らないふりして酒を呷る。佐吉はそんな三平を見ると益々笑い声を大きくした。
 ひとしきり笑った所で猪口をまた空にすると佐吉は胡座を崩して三平を見遣る。
「もう夜も更けました。寝るには良い頃でしょう三平さん」
 佐吉が障子戸を押すと座敷に青白い月明かりがさしこんだ。欠伸をする三平に隣室を示して佐吉は酒と猪口を器用に両手で抱えて立ち上がり座敷を出ていった。
 障子戸の外には鳥の鳴き声一つしない静けさが広がっていた。真夜中であるから物音はしない。三平は隣室の襖を開けて二度目の欠伸を盛大にもらす。敷かれていた布団に座り込むと途端に眠気が襲って来て三平はすぐに横になった。うとうとする事も無く濃密な眠りに搦め捕られた三平は寝息をたてはじめる。
 力の抜けた表情で眠りに落ちて行く三平の心にもう憂いの水は溢れてはいなかった。

 佐吉が主として住むこの屋敷には噂があった。
 猫など飼っていないのに猫がよく屋根の上で昼寝をしているだとか、夜中に屋敷を訪ねた帰り無かった筈の灯籠があっただとか。馬がいるだとか、屋敷一帯だけ雨が降っていただとか。不思議な噂は屋敷から近い村で暮らす村人達に語られていた。しかし村の者が気味悪がったりしないのには理由がある。奇っ怪なことが起これど、どれも村の生活に災いするほど恐ろしいことがおこったりはしないからだ。猫などが屋敷に遊びにきた子供と戯れている所を見ればわかる話である。猫も子供も、どちらがどちらを遊んでいるのか分からないくらい仲良く遊んでいるのだ。村の者が五月蝿く言わない所にはそんな訳もあった。
 はたしてこの屋敷がいつからあるのか定かでないが屋敷の存在と、そこに住む佐吉という男を村の者は皆、受け入れていた。
 屋敷の一室、板張りの床をぺたぺたと裸足が歩いていた。室の壁一面には据え付けられた書棚があり、所狭しと書棚に並ぶ草子や和綴じの内入りきらないものが床に積まれている。
 足音が止まった。佐吉である。
 ――その娘、死ぬぞ
 低く、朴訥とした声が響いた。
 佐吉はひとつ溜息を吐いてから、頭を掻く。眉根が寄って眉間には皺が現れていた。いかにも苦々しい表情である。
「俺がどうにかすることは出来ないさ」
 ――あなた様にはできるんじゃなくて
 別の、凛とした声が響いた。その声にはどこか嘲笑するような雰囲気がある。嘲笑うように試された言葉に、佐吉は口元を笑わせた。だが、本心は諦めているのだろう事がその瞳からうけとれる。二匹の狐は、佐吉の後ろについたまま鋭い瞳で佐吉を見つめていた。
「ハァ……全く、ね」
 疲れきった声でもう一度ため息を吐くと佐吉は文机に向かって座り筆をとった。墨字が和紙に流れて行く。夜半のことである。
 灯籠の火種もつきて、暁の薄ら明かりが室を照らしはじめた頃佐吉の斜め後ろに小童が座している姿が現れた。小童は綺麗に切りそろえられたおかっぱ頭をしており、大きな瞳がくりくりと動いている。視線が室にある書棚をなぞっていたかと思えば佐吉の背をじっと見つめはじめた。
「……天狐はどこにいったんだい?」
「アヤツは里に駆けてゆきましたよ。四半刻もすれば戻りましょう」
 佐吉の問いに目元を笑わせ小童は答えた。
「……ふぅん」
 鈴を転がしたような笑い声がして、佐吉の横を風が通る。小童の姿は霞がかったように消えてしまった。室には佐吉の姿しか無い。
 ――心優しいのです。わざわざ落ちた憑き物を喰らいに行くなど
 野狐は昨日の晩を思い出して、ツボに嵌ったらしく笑い声を響かせた。二対でいる狐は常に片割れの様子を見ているのだ。野狐が見たのは今里へ駆けて行った天弧が不運にも憑かれてしまった女童の元へ行こうとうずうずしていたのをずっと知っていた。無愛想な天弧が人に思い入れを持つことが心底可笑しいのである。
 佐吉は笑い続ける野狐の声に問いかけた。
「なら、顛末を聞かせてもらえるだろうかね」
 ――ええ、きっと。
「じゃぁ天弧が戻る前に終わらせてしまおうか。話してくれるかい」
 野狐の声が佐吉に答えて言葉を続けた。
 佐吉が再び筆を持ち和紙に綴りはじめる。和紙には狐の話す言葉がそっくりそのまま綴られていた。