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 仁蔵は苦しかった。
 生きていることが苦しかった。
 庄屋の下男として勤めてきたが、旦那からは邪険にされ、奥方様からは無理難題を押し付けられる。他の下男からは「仁蔵さんがしっかりしないから悪いんでぇ」と責任を押し付けられる。
 仁蔵には実家が無かった。
 幼い頃、この庄屋に奉公に出されて以来ずっとここで働いていたのだ。嫁ももちろん貰える訳がなく。薄給で、嫁を貰うようなことも考えられなかった。
 だから仁蔵は一生懸命に働いた。できる仕事をしっかりとこなして、旦那と奥方様の言い分もきいて。
 でも、もう駄目だったのである。
「アンタみたいな使えん奉公人が十年も勤めていたなんてウチもよっぽどな場所やわぁ。はよ辞めてや」
 娘様が言う無理な事を断った時だった。
 仁蔵は雷にうたれたように固まった。
 自分は、自分は今までこの家の為に働いてきたというのに、全て無駄だったのか。
 仁蔵は駆け出した。
 全てから逃げる為に。
 労働からも、叱責からも讒言からも、自分からも逃げる為に。
 呼び止める声は無かったように思う。仁蔵はただひたすら全てを捨てて、楽になりたかったのだ。
 廃寺になった寺を目指して山道を走る。ひた走った。
 草垣が着物を裂いても構わず、頬を掻いても無視して。走る仁蔵の目からいつのまにか涙が溢れていた。
「どうして、どうしてあっしがあんな扱いを受けねばならんのです」
「今まで立派に奉公を務めて、我慢して、働いていたというのに」
「あっしがなにを、したというんです」
 滔々と紡がれる言葉は止むことはなかった。
 地に握りしめた拳を打ち付け、仁蔵は哭いた。
 どうしても我慢ならなかった。自分がこんな仕打ちを受ける理由がわからなかった。仁蔵は直向きに働いていたのだ。ただそれだけだったのに。何故半端に奉公を休み休みやる者たちばかりが評価されるのか、仁蔵には理解できなかった。
「あっしは……あっしは死んでも怨まれるのですか」
「親もおらん、嫁もおらんまま、一人死んでゆくのですか」
「どうして許せましょう、あの家を、人を」
「もう駄目だ。許したくない。呪い殺してやりたい」
「あんな奴ら、死んでしまえばいい」
 呪詛の言葉が口から逃げてゆく。今まで心の内に溜めていたそんな言葉たちが、仁蔵の心から逃げていく。
 止められなかった。
 我慢の限界であったのだ。
 仁蔵は悪辣な言葉を吐き下し、奉公する家を罵った。
「あぁ、あー、どうしてあっしばかりこんな目にあわねばならんのです」
「もういやでございます。あっしは生きているのが嫌でございます」
「生きていてもいいことなどなにもない」
「死んでしまえばアイツらにだって会わなくてすみましょう?」
「ならいっそ死んでしまいたい」
 森が、風に揺れて音を立てる。
 死すら求める仁蔵の言葉を攫っていくように、風が葉をこそこそと揺らした。
 廃寺の天上はいつのまにか、暗雲に包まれていた。
「その命、いらぬなら我がもろうてもよろしかろ?」
 尻上がりな声が、した。
 仁蔵ははっと上を向く。誰もいないと思っていた。否、さっきまで誰もいなかったのだ。
 おかっぱ頭に酷く美しい顔をした童女が、こちらを見下ろして立っていた。
「誰です……」
 酷く美しい童女は、腰を曲げ、仁蔵の頬に手を触れる。
 冷たい。
「その命、いらぬというなら、もろうてやろうといっているのじゃ」
 童女はあっけらかんと口にした。
「あっしの命を、ですか」
「それ以外に何があるよう。さきほどから聞いていれば、いらぬいらぬ、にくいにくいと。粗末にここで打ち死ぬくらいなら、もらわれるほうがよろしかろ?」
「でも、あっしはあいつらに復讐がしたい。始末したい。何もわからんであっしを虐げたあいつらが死ぬところが見たい」
 仁蔵はもう人としての考えを捨てていた。
 人殺しが例え罪でも、殺してやろうと思うほどには。
「なら我がそれを見せてあげましょ。だから、その代わりにお命ちょうだいしますえ?」
「……見せてくれるなら、構いやせん。どうぞ貰って下さい。ただ、代わりに絶対に死ぬ所がみたい」
「わかっとるぅて。安心しな、見せてあげる」
 童女は美しく微笑み、仁蔵の心の臓に掌をあてる。
「もらいますえ」
 仁蔵が最後に見たのは、毛の生えた耳をたてた、童女の笑顔だった。
 それから仁蔵は、逃げ出してきた奉公先に戻った。
 罵詈雑言を受けながら、仁蔵は「へぇ、申し訳ねぇと思っております」と笑って謝った。今までの仁蔵ならむっすりした顔で謝っていたというのに、変わりっぷりに旦那は奇異の目で仁蔵を見る。
 仕事に戻った仁蔵はこれまでのようにしっかりと働いた。
 誰もが仁蔵だと信じて疑わなかった。仁蔵はへこへこと頭を下げながら、働く。誰に悪口を言われても「それは悪かった、あっしのせいです」と謝罪する。
 これまで以上に仁蔵は悪口を言われたが、それでもへこたれることはなく、言っている側も飽きたのか、たまに槍玉に挙げるに止まった。
 仁蔵の気持ちなど誰も理解しない。あれほど悩み死を願い、呪い殺そうとすら思った仁蔵のことなど、誰も知らなかった。
 そうして数日が経った日のことである。
 庄屋の主人が死んだ。
 主人は着物から内臓までずたずたに引き裂かれて、生き絶えていた。
 室には主人のものだろう血飛沫があちらこちらに飛び散っていて、遺体を納めにきた僧侶も狼狽するほどの有様であった。
 まるで獣に噛み殺されたような、酷い殺し方だった。
 もちろん、下手人は探されたが、夜であったことと、誰も主人の室に入ったところを見ていないせいで見つからなかった。
 奥方は泣きに泣いた。おうおう、と主人のことを思い泣いた。
 けれど主人は還らぬものとなってしまったのである。下手人のことを恨んだ。しかし下手人はいないのである。
 さめざめとした屋敷の中で変わらず働く者がいた。
 仁蔵である。
 仁蔵はこれまで以上に働くようになった。「旦那様のことは誠に残念でありました。けれど、それ以上に働かねば旦那様に顔立てできません」と仁蔵は奥方の前で口にした。
 奥方はなにも返せなかった。どうしたって仁蔵の言っていることは正しくて、仕様がないのである。いつもの罵り言葉も思い浮かばなかった。
 一人娘は父親が殺されたことを怖がって、母に「お祓いをしてもらいましょう」という。母も母で、尋常でない殺され方をした旦那を想うとそれも良いと考え頷いた。
 呼ばれた祓い屋は一十九と名乗った。
「いっとく、と申します。この度は祓いを願うとのことで」
「えぇ、えぇ、早くお願いします。私とこの子を」
 奥方はそう言って自分の娘を示す。
「それでは始めさせていただきます」
 一十九は樒を振るうと金剛鈴を一度鳴らした。
 チリリリーンと音が澄み渡る。
 樒を振るう葉の擦り合う音がする。幾つか経を唱え、頭、肩、足と樒をなぞっていく。
「おん‼︎」
 一十九の声が広間に響いた。
「これにて、終わりでございます。厄は祓われました」
「ありがとうございます、ありがとうございます」
 奥方は目に涙を溜めながら頭を下げた。娘も同様であった。
 そうして、一十九はその場を辞した。
 一十九の耳にも庄屋の話は及んでいた。主人が惨殺されたという。それも獣に殺されたように。一十九はここで祓い屋を営んでいるわけではなかったから、まさか自分にお鉢が回ってくるとは思っていなかったが、作法に則ってできることはしたつもりである。
 その日宿から一十九は出立した。