ASiGaRu


 私は知っている。
 私が産まれなければ良かった事を。
 私の兄様と私の歳は同じだ。それは私が兄様と一緒に産まれてしまったから。私と兄様は双子なのだ。
 産まれてすぐ、私は殺されそうになったと聞く。今でも早く亡くなってしまえばいいと言われる。私がいなければ兄様が苦しむ事もなかったのだと。
 私が殺されそうになったその時私を救って下さったのは母様である。どこにそんな体力があったのか、私を絞め殺そうとした産婆から私と兄様を奪い逃げたのだ。そうして生かされ、屋敷ではいないものとして扱われた。
 それでも、私は幸せだった。
 兄様がいて、母様がいて、私はそれで幸せだった。父様や御祖父様や兄弟が私を無視しても、私は幸せだ。寧ろ食事を与えて生かして下さっている事に感謝さえした。
 けれど、母様が亡くなられたあの日から、私と兄様は引き離された。
 殺されても可笑しくなかっただろう。屋敷には井戸があったし、私は何処かの怪談話のように井戸に突き落とされてもなんら疑問を抱かれる存在では無いのだ。
 それでも、私は生かされる事になる。屋敷の奥、鍵のかかる部屋に追いやられ兄様とは会えなくなった。
 毎日、一度の食事を一人で食べ、ただ一人で過ごす。娯楽等与えられる訳も無い。私はその部屋で色んなものを視ながら、何をできる事も無く静かに過ごした。
 でも生きているのが苦痛に思ったのはその時が初めてだった。
 母様は亡くなられた。兄様とは会えない。私を愛して下さった人とはもう会うことなど叶わぬだろう。私が産まれたことを喜んだ人などいなかった。私は望まれぬ存在だ。私が産まれなければ、母様も兄様も幸せに過ごせたのに、私が産まれたばかりに母様は命を落とし兄様は悲しまなければいけなくなった。
 毎日毎日、そんな事ばかり考える様になった。私がいらぬ存在だと、思い知らされる。
 私は食事をとらなくなった。兄様にも母様にも顔向けできない。私はいらない子であったのに、どうして私が生きる事を許される。
 三日も食事をとらなくなれば、毎回食事を持って来てくれた女中は嫌そうな顔をして食事を持ってこなくなった。
 お腹は空いていた。空腹で胃が焼けてしまいそうに感じることもあった。喉がカラカラで辛くて、痛くて、悲しい。身体はこんなにも食を欲している。醜いものだ。私が今まで生きられたのは母様のお陰。その母様が亡くなられれば私は生きれない。
 あゝ、兄様。兄様の双子として産まれてごめんなさい。
 あんなにも私を気にかけて下さったのに、私と共にいて、笑って、話をして、愛してくださったのに。こうして亡くなる事しか出来なくてごめんなさい。
 兄様が亡くならずに末長く生きて下さることを願っております。

 ぼんやりと、眠気が降りて来た。明かり取りの小さな窓から落ちる陽の光は鮮やかな橙色をしていて、それがとても美しく見えた。
 乾いた身体のどこに残っていたのか、涙が頬を伝う。
  温い水は顎から床に零れ落ちた。
  目蓋が閉じる。寒くも無くて暑くも無い、不思議な感覚が私を包む。
  母様が亡くなられてから今日でちょうど、四十九日だ。母様の魂は漸くこの家を飛び立つのだろう。どうか迷わずに逝くべき場所へ行けたらと、そう願って私は暗闇に身を沈めた。

  私を呼ぶ声がした。懐かしい兄様の声である。
  もう、会える筈も無いのに。私は淋しいのだろう。兄様が大好きだった。だから、死にそうになって私は兄様の声を聞くのだ。
「緋依」
  兄様の声がする。私の名を呼んでいる。
「緋依、起きて」
「緋依緋依。ごめんよ、起きてくれ」
  どうして、兄様が謝るのだ。謝らなければならないのは私であるのに。
 そう伝えたくて、重たい目蓋を押し開けると夕闇に兄様の顔が浮かび上がる。もう、目にする事など出来ないだろうと思ったていた兄様のお顔。
「兄、さま……」
「緋依。ごめんよずっと迎えに来れなくて」
「迎えに? ごめんなさい。兄様……」
「どうして謝るんだい。さぁ起きて」
  力の入らない身体を起こす。兄様が私のすぐ横で私の背を起こし、手を取る。
  部屋には兄様しかいなかった。よくみれば、兄様は背に風呂敷を結びつけ、この部屋の重い扉を開く鍵を持っていた。
 起き上がった私を見て、安堵し目を細める。軽く微笑んで、兄様は言った。
「ここを出よう。緋依」
「……出るって」
「大丈夫。二人でいるならきっと大丈夫だから」
 そう言って頭巾を被せられ、手を取られた。
 なにがなんだかわからぬまま兄様と手を繋いで牢獄から出た。月のない夜だった。兄様は迷いなく進んでいく。
 屋敷の裏を通って、生垣の囲いを潜り抜け、屋敷の外へ出た。
 はじめて、私は屋敷を外から見た。大きくて、立派な屋敷だった。でも、とても虚ろである。
「行こう、緋依」
「兄様、本当に?」
「あぁ。その為に金子も貯めた。これからは二人で生きよう」
 その言葉のなんと暖かかったことだろう。緋依は目に涙が溢れそうなのを堪えて頷いた。
 兄様はまた私の手を引いて、暗がりに静まった町を歩き出した。
 山道というものに行き合ったのは初めてだった。屋敷の牢獄にはあれほど色んなものが居たのに、向かう途中、一つも見かけなかった。
「兄様、みんな、いないのね」
「ふふとっておきを用意しておいたんだ。効くみたいだね」
 そう言って兄様は懐から護符を取り出した。
「それがあるとみんないなくなるの?」
「そうみたいだ。だから、どこも怖くないよ」
「うん」
 山を越えるのに、足が棒のように疲れた。足の裏も腫れている気がする。元々、歩くなどしなかったから、仕方ないのだけれど、兄様に心配をかけてしまうから言えなかった。
 けれど、段々遅くなる歩みに気づいて兄様は立ち止まった。
「少し休もう。無理をさせたね」
「いいの、大丈夫」
「ううん僕も休憩したかったから、休もう」
 そう言って兄様は腰につけていた竹筒を私に渡した。
「水だよ」
 少しずつ口にすると、乾いた喉が満たされていく。おまけに食欲も顔を出してきた。
「お腹が空いた」
「食べようか」
 風呂敷を広げると、兄様は乾飯を渡してくれた。
「よくふやかして食べるんだよ」
 兄様も乾飯を齧る。
 身体はくたくたになっていたけれど、生き返るような思いだった。兄様が迎えに来てくれなければ、私はかあ様の元に向かっていただろうから。
 森は暗がりでよく見えない。たまに吹く風がざわざわと音を立てる。座った土は少し冷たかった。それでも、生きれるということに緋依は感謝した。あの牢獄から救ってくれた兄に感謝した。
「兄様ありがとう、本当に」
「どうしたんだ急に」
「ううん、嬉しくて。外がこんなに広いなんて思わなかったの」
 明かり取りの窓から見えるのは空だけだった。だから、緋依の世界は狭かったのだ。あの牢獄だけが、自分の世界の全てで、兄様と母様だけが緋依の世界にいる人だった。
 夜が明ける前に、次の村にいこうと兄様は行った。
 緋依は動かない足を精一杯動かして、兄様に手を取られながらついて行った。
 朝日が昇る頃、やっと村が見えた。見渡す限り田んぼがあって、朝日が代掻きを終えた田んぼに射して光る。
「見つけてあるあばら家があるんだ。そこで一眠りしよう」
 あばら家がなんのことか緋依にはわからなかったが、休める場所であるらしい。頷いて兄様と歩く。
 畦道を抜けて、一軒の寂れた小屋の前に来た。兄様は迷わず戸を開けて中に入る。外は寂れて見えたけれど、中はまだまだ使えそうであった。囲炉裏と、竃に板間には筵が引いてあった。
 兄様は火打ち石を取り出すと焚べてあった薪に火をかけた。誰かが使う為にあるのだろうここを、私たちが使っていいのだろうか。
「ここ、使っていいの?」
「うん。旅人の宿みたいなものだから。いいんだよ。僕らも旅人だからね」
「囲炉裏、あったかい」
「そうだね。少し横になって休むといい。疲れただろう」
 兄様の言葉に頷いて、緋依は筵に横になった。
 いつも寝ていた煎餅布団より硬いけれど、なんだかいつもよりよく眠れそうだと思った。うとうとと微睡みに飲まれて緋依は眠った。
 昼過ぎのことだったように思う。
 緋依が眠ったのを見て自分も壁に背を預け眠っていたところだ、戸が開く音がした。慌てて目を開けるとそこには頭巾をつけ、腰に小刀を佩た男がいた。
 男はこちらを見ると「先客がいたか」と言う。
「私は一十九と申します。こちらを宿にとすすめられ来たのだが、屋根をお借りしても良いだろうか」
 どんな男かと思えば意外と礼儀正しい人である。
「僕は俐榮です。僕らがいても構わないのでしたらどうぞ、ごゆるりと」
「感謝致します、それでは失礼」
 一十九は板間に腰掛けると頭巾をとった。そのままそこで胡座をかき、目を瞑る。しばらくして寝息を立て始めた彼に、俐榮はやっと警戒を解いた。
 俐榮は追われるとは思っていなかったが、その実、追われないとも思っていなかった。けれど厄介事の双子が消えたのだ、少しは放っておいてくれればいいと思った。
 妹の眠る姿はいつ見ても安心する。妹がいていくれることに安心した。
 片割れなのだ。妹を失えばそれこそ半身が落とされたように感じるだろう。だから、屋敷で後継ぎとして生きてきた間は辛かった。半身は離れに閉じ込められたまま、人らしい生き方すらさせてもらえないのだ。ただ、双子として生まれてきたばかりに。
 眠る妹の髪を梳く。柔らかい毛髪がしっとりとしていた。額はじんわりと暖かく、緋依は小さく呼吸している。
 嗚呼、二人で逃げ出してきて良かった。あのまま一生緋依を牢獄に閉じ込めておくなんて考えたくもない。母様もこれで良いと仰ってくれるはずだ。
 一月ほど前に亡くなった母はただ二人の心配をしてくれた。そして「いつかこの家から逃げなさい」と護符を渡してくれたのである。いわば、俐榮にとってはお守りであった。
 母の言葉と思いを心に呼び起こせる、お守りである。
 それから俐榮も少し眠った。
 あばら家に流れる空気はとてもゆったりしていて、囲炉裏で時折爆ぜる火の音が眠りを誘う。冬が近づいていた。俐榮はこの先どこで生きて行くか、少しの不安と期待を感じながら眠った。
 誰かが鍋を混ぜる音が聞こえた。
 くすくすと小さく笑う声もする。緋依の声だ。
 やっと俐榮が起き上がると、先に起きていたらしい緋依が声をあげた。
「兄様お早うございます。もう少しでお夕餉ができるんですって」
「おはよう。一十九さんが?」
「えぇ、近くのお百姓様から頂いた白根で、お鍋を作って下さったの。一緒に頂いていいって」
 その一十九の姿が見当たらないと見回すと緋依はふふと笑う。
「今そのお百姓様にお礼をしにいったところ」
 暫くはまともな飯を食わせてやれないと思っていた所に降って湧いた幸運だった。
 戸が開いてちょうど一十九が帰ってきた。
「おう、鍋は大丈夫だったか?」
「うん。ちゃんとかき混ぜておきました」
「そりゃありがとうな。どれ、俐榮も起きたことだ、飯にしよう」
 一十九は鍋の汁を椀によそってよこした。緋依が受け取る。俐榮も受け取った。温かで味噌の香りがする。
 頂きますと口にして二人は汁を飲む。
 白根の汁といえど暖かさには変えられない、緋依は暖かい飯を食べるのが久しぶりだったから、より美味しく思えた。というより兄様と食べた干飯以外に食事を食べることさえ久々だった。
 心の臓まで染み渡るような美味しさに、ふぅふぅと冷ましながら食べる。
 食事が楽しいと思ったのは、いつぶりだろう。兄様は時折、食事時にともにいてくれたりもしたが、ずっとはいられない。母様がいた時は、よくきてくれたけれどその母様もいなくなってしまわれたから。
「一十九さん、本当にありがとうございます」
 俐榮が言った。
「何、旅は道連れというやつだ。施しは皆で受けるほうがよかろう?」
「本当に感謝しています」
「ありがとうございます」
 二人の連なる声に一十九は笑った。
「ほんに、似ているなぁ。二人は」
 その言葉に固まったのは二人だった。
 似ている、と言われることは二人にとっては恐怖である。双子は忌み嫌われる。産婆が緋依を絞め殺そうとしたのだって、因習にならったからなのだ。だから、二人はこの秘密を生来ずっと隠し通さねばならなかった。
「兄弟だから、ですかね、よく言われます」
 先に答えを返したのは俐榮の方だった。
「年子なんです」
 なんとか緋依も言葉を思いつく。
「そうか、二人してどこへ行くんだい」
「ちょっとお宮参りを」
「若いのに感心だねぇ」
 俐榮の言葉に一十九は頷く。ひとまずは怪しまれていないらしいことに俐榮は安堵した。
 俐榮と緋依の秘密を知られてはいけないのだ。
「一十九さんは何をしていらっしゃるんですか」
 一十九はうむ、と一言発すると答えた。
「私は諸国を行脚している祓い屋というもんでな。眉唾な話に聞こえるかもしれませんが」
「祓い屋さん? すごいのね」
 食いついたのは緋依であった。そうして納得する。この世に蔓延る視えないものが今ここに集まってきていないということに。
 俐榮は自分の持っている護符が力を示していた所以かと思っていたが、彼が祓い屋というなら強ち間違った話でもないようだ、と少し信じられた。いつもは絶対に何かを視ている妹が、何も視ていないのだから。
「普通は変な顔をされるがなぁ、すごいと言われたのははじめてだ」
「ふふ、でもきっと一十九さんの力は本物よ。私そう思う」
 緋依が言うと一十九は少し照れくさそうに首を掻いた。
「修行をおさめてもまだこの道は全て修行のようなものでな、自らの力を過信してはいかんのだよ」
「私には少しむずかしいお話だわ。でも、一十九さんが本物ってことだけはわかる」
「本物というのが何を指すかによるがなぁ。しかしその言葉ありがたく受け取ろう。緋依、ありがとうな」
 今度は緋依がむず痒そうに笑った。
 和やかな夕餉を終えて、片付けはやると言った俐榮の元に緋依はついてきていた。今まで牢に閉じ込められていたからそういえば生活に関することはほとんど知らぬのだ。教えてやらねばとまずは食器洗いを教えた。
 緋依ははじめてのことに少し苦戦しながらも、なんとか鍋を洗い終える。水瓶の水もそれほど減っていないし、注ぐのは明日で大丈夫だろう。
「緋依、今日はもうお休み」
「さっき眠っていたから全然眠くない」
「旅は眠れるときに眠っておかねばならんよ、緋依」
「一十九さんの言うとおりだよ」
「はぁーい」
 緋依はそう言って筵の上に横になる。
 囲炉裏の火はまだ燃えている。眠る頃には尽きてしまうだろうが、朝になってまた火を入れればいい。
 横になった緋依の隣にごろりと転がり、俐榮はこの先を考えていた。
 二人で逃げられたのはよかったことだ。流石に忌み子の二人を追うような追手もこないだろうし、後は定住できる先を見つけるのだ。でも、そこで邪魔してくるのが歳である。まだ一人前の一歩手前にある俐榮は多少の金子を持ってきたものの、それでずっと食いつないでいくのは難しい。どこか、自分たち二人で衣食住を賄える場所を探さねばならない。
 果たしてそんな場所はあるだろうか。
 夜半、俐榮は緋依がいないことに気づいて目を開けた。一十九は眠っている。囲炉裏の火は消えていた。片割れがいなくなったことに必要以上に心の臓がばくばくと音をたてる。
 急いで戸から出ると左右を見回す。こんな夜半に行くとすれば雪隠であろう。
 雪隠は共同であるから、そこにいるはずだと俐榮は走る。ついた共同雪隠は皆空で、どこにも誰もいない。風に揺らされてキィと古い板戸が軋む音がするばかり。
 辺りを見回す。ひゅうと風が吹く中に声はしない。否、している。
 ――ナニゾアノ娘ッコハ
 ――ウマソウダナァ
 ――ホレオレガサキ二クウテミヨウ
 ――オレガサキダ
 轟々と森が鳴く。
「兄様……」
 雪隠から帰ろうとしたとき、不思議な光を視た緋依は抜け出してきて森まで歩いてきてしまっていた。
 今までなんで視えないのか不思議だったけれど、兄様の護符があったからなのだ。離れてはいけなかった。独りで雪隠へ行くべきではなかった。後悔は遅い。化物達がこちらを見つけようとしている。田圃からそう遠くない稲荷様の袂に隠れさせて頂いたけれど、運が悪ければ朝までこのままだ。後は稲荷様の力に頼るしかない。
 ――デテオイデ
 ――コワクナイゾ
 駄目。あれは嘘の言葉。鳥居の向こうにもやもやとした塊を視て、緋依はぎゅっと掌に力をいれた。
 数多、あんなものを視たことがあった。でも牢の中には入ってこなかった。だから、対峙したことは無いのだ。幾つも幾つも視てきた。話すことさえあった。けれどあれは確実に私を食らうてしまうだろう。折角兄様が外に連れ出してきてくれたのに。
 私の浅はかな行動で、兄様と離れるようなことになるのは絶対に嫌だ。
 朝までここで待とう。隙を見て出ていけるようなら一目散にあの小屋に駆け戻ろう。そうと決めた緋依はじっと鳥居の側で縮こまっていた。
 俐榮は聴こえてしまった声に、独りで行くのは最前ではないと判断して、一十九の元に戻った。
「一十九さん! 一十九さん、お願いです起きて下さい」
 一十九は、「ん……」と声を上げると起き上がった。
「どうしたこんな夜更けに」
「緋依が危ないんです。お願いです、助けて下さい」
「緋依が? どうしたのだ」
「ともかく、来てください」
 俐榮の必死の形相に一十九もただならぬものを感じたのか、すぐに小屋から出て俐榮の後をついていく。
 暗闇に月明かりが光る。俐榮の耳にはまだあの声が聴こえていた。田畑を抜けて、山の斜面の方でその声は大きく聞こえる。
 ――ナン……ダ、ココニハ
 ――イラレヌ、イラレヌ
 俐榮と一十九が斜面にある小さな階段を登ると、声は遠くへ行く。
「なにやら、気が悪いかと思ったが、遠のいたようだな」
 一十九の言葉に俐榮は頷き、階段を駆け上った。
 上には小さな鳥居があって、それに隠れるようにしている緋依の姿があった。
「緋依!」
「兄様! 本当に兄様? それに一十九さんまで」
 驚いた顔だがその表情には安堵も見えた。
「無事で、よかった……」
 俐榮は緋依を抱きしめる。緋依もそれに応えてぎゅっと目を瞑りながら兄に抱きついた。
 嗚呼、兄様がいる。本当によかった。
「ごめんなさい、兄様……私」
「いいんだ、気づかなかった僕が悪かった」
 危うく助け出した妹をまた失う所だったのだ。俐榮はその腕の中にある緋依の暖かさに酷くため息を吐いた。
 三人であのあばら家に戻る間も一十九は不思議に思いながらその二人の背中を見ていた。
 視えるのだろうか。聴こえるのだろうか。
 一十九は心当たりのある、男の顔を思い浮かべる。妙な気を纏ったその男の名は佐吉といった。
「兄様、これ美味しいのね」
 緋依は兄から与えられたひとつの干菓子を口に含みながら言う。
 囲炉裏には相変わらず火が湛えられていて、狭い小屋の中を暖めている。緋依は兄、俐榮の隣に座っていた。一十九は対座に座してなんとも言えぬ顔で囲炉裏を眺めていた。俐榮はそんな一十九の表情に気づいていて、どう言えば良いのか、どう言い訳したら納得してもらえるか必死に考えていた。祓い屋だと言ったから視えない物にも不信感は無いと思って助けてもらうために呼んだのだ。だから、もし一十九がそれらに不信感を持っているのだとしたら二人はすぐにどこかへ行かねばならない。屋敷でも、そうだった。母様だけは視える人だったから信じてくれたけれど、二人が視えるものについて話すことを「二人だけの間にしなさい」とよく温和な声で言ったものだった。父様も爺様も皆、そういうものについては毛嫌いしていた。座敷牢に置かれていた緋依はそういうことがまだよくわかっていないようだから、金平糖を与えて話をすり替えてみたのだが。一十九の方はそうもいかない。
「一十九さん」
 俐榮は声をかけることを選んだ。
 一十九は顔をあげる。その顔は迷っている顔だった。でも不信感は無いようである。
「なんだい」
「あの、夜分にすみませんでした。起こしてしまって」
 とりあえずは謝ることである。失礼を働いてしまったのだから。
「いや、いい。気にしないでおくれ。妹が無事で良かった。それより……何やら怖がっていたようだが」
 ぴしり、と空気が固まる音がした。
 俐榮は理由を探した。妹が怖がること、普通の女子供なら怖がること。
「暗い所が苦手なようで……」
「いやぁそうか。そうだなあこの年頃の時分は私でも怖がっていたよ。おなごならなおのこと」
 なんとか誤魔化せただろうか。俐榮は一十九の表情を見る。一十九はしかしまだ、なにかを考えているような顔をしていて、俐榮は気が抜けなかった。当の本人である緋依は金平糖を舐めて不思議そうな顔をしてこちらを見ているのだ。
「美味しい?」
「うん。とっても」
 俐榮は笑うと、緋依の頭を撫でた。片割れの為に手に入れた菓子だ。美味しいなら何よりである。緋依はきっと、今自分のことが話題に上がっているのもよくわかっていないだろう。それほど長く座敷牢は緋依を独りにした。色々教えてやらねばならない。短い間話せる時はあったけれど、それでは到底足りぬのだ。
「兄様、私眠い」
「朝はまだだからね、寝ていいよ」
「うん……」
 答える声もそこそこに、緋依は兄の肩に頭を寄せてすやすやと眠り始める。そんな緋依を筵の上に横にならせてやろうとすると一十九がそっと立ち上がった。
「手伝おう」
「ありがとうございます」
 一十九の強健な腕に緋依は軽々と持ち上げられて、筵に横たえられた。
 緋依を眠らせてからも二人は起きたままだった。互いに囲炉裏を挟み、黙ったまま。ぱちぱちと時折火が爆ぜる音がする。朝はまだ来ない。
「俐榮。言いたくないなら、いいんだが。与太話を少し聞いてくれぬか」
 沈黙を破ったのは一十九だった。
「私の知り合いの話だ。その知り合いは、よく、人ならざるものがこの世に有るのだというのだ」
 俐榮は目を丸くする。まさか、その人は視えているのだろうか。母と妹以外にそれを視る人を知らなかった俐榮には、とても興味深い話である。何せ、常人はそれを信じてはくれないのだから。
「視えるものを事細かに説明できるとも言っていたが、その実見えぬ私にはよく話してくれることは無くてな。私は祓い屋なんぞをやっておるが、修練で得られたのは作法と数多の神への礼儀のみ。視る力はついぞ得られんかった。だがな、私は信じておるのだよ。何ぞ視えぬものがいてもおかしくはないと」
 そう言って自分の言葉に後押しするように一十九は一つ頷く。
「だからな、もしその、二人が何かを視ることができるのだとしたら、それは素晴らしいことだと……その、思う」
 素晴らしくなんかない。
 俐榮は思わず口に出していた。一十九が驚いた顔をする。しまったと思ったがもう遅い。俐榮は眉を顰めて、言った。
「何も素晴らしくなんかないです。人に見えぬものが視えるとて、役立つことはありません。ただ奇異の目を向けられ疎んじられるだけです。緋依もそうだった。この子はまだそのことをよく理解していないから……。一十九さんにはご迷惑をおかけしました。申し訳ありません」
「俐榮、出て行こうと思っているのか?」
「……はい。早ければ陽が登れば、ここを出ます。ですから、僕らのことは忘れて下さい」
 一十九が今度は悲痛そうに眉を寄せる。
「そうではないのだ。何も二人を目の敵にする為にこの話をした訳ではない。その、二人さえ良ければ知り合いと会って欲しくて話したのだ」
 驚いた顔をした俐榮は少し考えると答えた。
「どういう、おつもりなのですか。一十九さんにはなんの利もないはずでしょう?」
「まだ子供であろう、二人は。そんな二人だけで旅をするなど、何かあったに違いないと思うたのだよ。思い過ごしならそれでいい。でも、もしそうなら力になれやしないかと……」
「何も。僕たちは二人で平気です。だから一十九さんも気遣わないで下さい」
 突っぱねるような冷たい言葉に一十九は哀しみを覚えた。今までどれほどの労を負ってきたらこんな目になるのだろうか。何もかも期待もせずにただ孤独に生きようとしている。そんな目が、一十九を見ていた。