ASiGaRu


 実態を現していた二人が霊体になっても緋依と俐榮の目にはそれがしっかりと視えていた。黒の狐と白の狐である。
 黒い方が天狐で白い方が野狐だという。「一十九さんの前では秘密ですよ」と言った佐吉の言いつけ通り二人は一十九には黙っていることにした。
 湯浴みから上がってきた妹の次に俐榮が湯浴みする。
 自分の髪は濡れていてもすぐ乾くから良いが長い髪の妹はそうはいかない。布で拭ってから、髪を編んでやった。風邪をひくよりはいいだろう。
 佐吉はいつのまにか食事を整えていて、暖かな湯気の立つ御膳を運んできた。
箱膳に乗った菜は先程貰ってきたものだろう。
 茄子の揚げ浸しにくさびらの和え物、干物が一枚。黒米と雑穀の飯。緋依は目新しいものに感じて突っつきながら楽しんでいた。こんなに楽しい食事はいつぶりだろう。佐吉の背後にいる狐に時折目を向けながら緋依はぱくぱくと咀嚼する。人と食べるご飯の方が独りで食べるよりずっと美味しかった。
 お腹いっぱいに完食して、緋依は俐榮と共に片付けを手伝った。手伝うと言っても厨に箱膳を運ぶだけだったが。佐吉は手早くそれらを片づけながら「和室に戻っていいですよ」と言った。
 二人はすたすたと廊下を歩き、和室に戻った。
 一 十九が次の間に布団を敷いている。さらに次の間にももう二床。恐らく一番奥に二人を寝かせるつもりなのだろう。
 俐榮は持っていきていた荷物をそちらにうつしてから和室に戻った。
 一十九は難しい顔をしながら黙って座っていた。
 なにか、あったのだろうか。
 俐榮と緋依は和室の隅に座っていた。緋依が欠伸をする。
「二人共、眠いなら寝たら良い」
 緋依はうんと頷きながらも起きている。
 人といられるのが安心するのだろう。ずっと独りだったのだから。
 俐榮に寄り添うようにして緋依はうつらうつらとしていた。戻ってきた佐吉はそんな緋依の様子を見て目を細める。
 茶を卓に置くと、胡座をかいた。
 横には桜皮でつくられた煙管盆も置いてある。爺様が使っていたのを見たことがあるから俐榮にはわかった。愛煙家というやつなのだろう。
 一十九は出された茶を飲む。相変わらず表情は硬いままである。
 俐榮の横で眠りはじめた緋依に、白の狐がくっついてきた。膝の上で丸くなると狐もそのまま眠りはじめる。随分と人懐こい狐だ。
 佐吉は煙管盆から煙管をとると、ちょいちょいと刻み煙草を詰めると煙管盆の炭火に雁首を近づけ火を点けた。ゆっくりと吸うとふぅと吐き出す。
 紫煙が和室の上へと漂った。
「一十九さん、どうかしたんですか」
 佐吉が口を開いた。
 一十九はうむ、と下を向いたまま少し黙って、しばらくしてから答える。
「気にかかることがあってな」
「ほう、気にかかること、ですか」
「そうだ。何せ自分が関わったことなのだ……」
 それには返答せず、佐吉は一十九の言葉を待つ。
 煙管からは相変わらず紫煙が流れていた。
 黒い狐は話を聞いているのか、いないのか、佐吉の斜め後ろでしゃんと背を伸ばして座っている。犬のようだ。
 外は暗くなっていた。先程行灯に灯された火が、ほわりと室内を照らす。
 一十九は佐吉にこれを話すべきかどうか迷っていた。なんとはなしに話し始められたら良かったのだが、一十九には難しいことである。自分が祓った家のものが殺されたなど、中々に言い辛い。自分の祓い方が間違っていたのだろうかと一十九は苦心していたのだ。
「私が、間違っていたのやもしれん」
「それはまた、どうしてです」
 佐吉は紫煙の向こうで、笑みともつかぬ顔をして尋ねる。
 こうして尋ねられると、何故か話さずにはいられなくなってしまう。いつもそうだ。佐吉の所へ来た時はいつもこうなのだ。話すまいと思っていることもいつのまにか口上に登ってしまう。
 何か、佐吉が妖術でも用いているかのように、話し始めてしまうのだ。
「きちんと祓ったはずなのです」
 そう、きちんとやった。手順も滞りなく、何も間違いは起きていなかった。
 だから一十九はこれで大丈夫だと思ったのだ。
「けれど、その母親が死んでしまった」
「死んだンですか」
 佐吉の声が和室の沈黙に消えていく。
「庄屋の母子でした。当主が酷い死に方をしたらしく、その下手人の手がかりもなくて、どこかなにかを恐れているような、そんな人たちだった。お祓いを頼まれました。流れ者の自分に頼むなど相当に急を要したのでしょう。だからきちんと祓ったのです。けれど……」
「死んでしまったと」
 一十九は黙った。
 俐榮は眠っている緋依を起こさぬように、少し身じろぎした。佐吉はぷはぁと煙を吐き出した。
「今度は、娘が死んでしまうのではないかと……私の力など意味がなかったのではないかと、恐ろしいのです」
 苦悩した表情の一十九は本当にそれが恐ろしいことなのだというように告げる。
 白い狐が首をもたげ、一十九の方を見る。
「私は……、私は間違ったことをしてしまったのだろうかと」
 酷く憂いた様子だ。けれど俐榮はなんと答えをかければよいかも分からず黙っていたままだった。
「その庄屋がある場所はどこなんでしょう、一十九さん」
 佐吉だけが独り落ち着いたまま、いつもの調子でそう尋ねた。
 一十九が答えた場所はちょうど俐榮と緋依が逃げてきた隣の町だった。あの町の庄屋なら、俐榮も外回りをしているときに会ったことがある。金ばかりに目が眩んでいるような、そんな印象だった。働いている下男や下女も、忙しくしているだけで働くことが義務とでも言うような、ぴりぴりとした雰囲気だったのを覚えている。
 あの、当主が亡くなって、次は女主人。
 そうとすれば、この次は一人娘であろう。まだあの家は婿養子も迎えていなかったはずである。
 娘は独り、怯えているのだろうか。父母に落とされた災禍が自らにも降り掛かってはきやしないかと。
「一十九さんのお祓いは保することができるものであることは疑いはない。だから……」
 佐吉はそこで言葉を区切ると、煙管を置く。
「祓う対象が違ったのでは、ないですかね」
「対象が?」
「えぇ。一十九さんはきちんと祓える人だ。誠に数少なな者であることは確か。その祓いが効果を示していないというのは恐らく、その母子には憑いていなかったんでしょう」
「ならば、元凶は他に……」
「そうですね。怨恨によって殺されたのならば、呪い殺されたと考えるのが一番自然だ。だって下手人も見つかっておらんのでしょう」
「その通りだが……ならば誰が」
「はて、見当はつきませんがね。顛末は家の中で起きている可能性が高い。家人ならば、家人同士何を行っていれば可笑しくないということはわかりますね。だから、家人の中で誰かが、何らかの方法を用いて、父母を手にかけたのですよ一十九さん」
「祓うべきは、家人だった……ということですか」
「そうなりましょうな」
 至極当然といった体に、一十九は肩を落とす。
「一度母君が亡くなられていては、私の信用などないも同然です。どうすれば……また祓い屋として姿を現すことができるか」
「そこはね、追々考えましょう。お疲れのようですし少しお眠りになったらどうです?」
 佐吉はそう言って布団をすすめた。俐榮の方にもそうして目配せをする。
「お、やすみなさい」
 今まで話を聞いていたけれど、何も口を挟めずにいた俐榮はどもった言葉で挨拶をして、緋依を負ぶうと寝間まで運んで布団におろし、障子を閉める。
 障子を締めて、あちらの行灯も消されると現れるのは濃厚な闇だった。
 俐榮は夜目が人よりはきくほうだから、天井の梁にある木目の数を数えたりしながら、眠気がやってくるのを待っていた。
 はっとして、緋依の方を向くと、緋依もこちらを見て目を開けている。
 緋依が俐榮の布団の中に潜り込んできた。掛け布団に顔を埋めながら、二人はこそこそと言葉をかわす。
「私、寝てしまっていたのね」
「うん。よく寝ていた」
「一十九さん、何のお話を?」
「あぁ。それは」
 掻い摘んで話して聞かせてやると緋依はふぅんと言ってから暫く目をきらきらと輝かせて言い出した。
「一十九さんが入れないなら私達が入って見つければいいんじゃないかしら」
「僕達が?」
「私達には憑いているならそれが視えるはずだし、視えたらお母様の護符、貼らして頂ければ、もしかしたら憑き物もとれるかもしれない」
「そう……かもな。でもこれは皆には秘密で出なきゃいけないよ?」
「わかってる! でも私は兄様についていくし、兄様は一十九さんを助けたいのでしょう?」
「うん」
「なら大丈夫、私もいるもの。いざとなったらね、これに守ってもらうから」
 そう言って妹が懐から出したのは細工された石だった。乳白色の石は勾玉型に削られており、それが革紐で妹の首に括られている。
「明日になったら抜け出そう」
「そうしましょう兄様」
 早朝、佐吉の屋敷の蔵から地域図を取り出した二人は近道の目星をつけ、それを紙に書き写す。
 蔵には鍵がかけられていなかったから、中の物さえ返せば活用はして良いだろうという結論に達したのである。
 さて、早朝には佐吉も起きていた。
「抜け出すつもりのようですよ」
 野狐がふふと笑いながら言う。天狐は相変わらず仏頂面のまま、そんな野狐の言葉を聞いている。
「野狐、ついていってあげてくれるかい」
「まぁ、構いませんよ。それくらいお安い御用です」
「じゃぁ、二人のことは見逃すから、行っておいで」
 野狐はしゅるりと霊体に戻り、壁を抜け出て飛んでいった。
 佐吉がそんなことを言っているとも知らぬ二人は持ち出した荷物を背に、近道に向けて歩き出す。近道というのがどういう形状なのか、知っておくほうがいいと思ったのは後の祭りだった。
 それは全くの獣道で、木々と草葉の間、丸くなっている道を通るのである。もちろん空はみえず、周りも見えない。ただひたすら、道とも言えぬ道を進むのみ。辛うじて足場は土が見えているから、それさえ見失わなければ進むことはできた。
 山の険しい獣道を進むこと数刻、やっと開けた場所に出た。
「一度休もう」
「一度休もう、兄様」
 声が重なる。お互いこんなことがよくあった。昔懐かしむ暇もなく、干飯と漬物壺から掬った胡瓜の漬物を食べて水を飲む。昼食を終えて二人はまた歩き出した。しばらくすると、見覚えのある道に出た。山を縦走してきた甲斐があったというものである。途中古びた綱を登らなければならない時など酷く苦労した。七日かかった道が、一日で半分は踏破できている。これなら三日あれば辿り着けるだろう。
 でも帰るならこの道は通りたくはない。と思うほどに過酷ではあった。緋依には無理をさせている。
 三日かかった。町が見えてきたのは漸くだ。
 夏の町は賑わっていた。朝市の新鮮な野菜が飛ぶ様に売れていく。
 本当なら緋依を休ませるためにも、宿を借りたいが、ここで宿をかりて二人の身元が家に伝わってしまったらまずいのである。だから、河原の隅にある適当な廃屋に居座ることにした。朝市で買ってきた野菜を古い置き捨てられていた鍋を使ってぐつぐつと煮る。幸いにも俐榮は塩を持っていたからそれで味をつける。
 野菜汁の出来上がりだ。
 二人ではふはふと食を囲んでいると、廃屋の隙間からちょろりと出てきた何かがいた。
「野狐さん!」
 一番に反応したのは緋依だった。野狐は言葉も返さず緋依の膝に飛び乗ると野菜汁を舐める。
 ――まぁまぁだね。僕は味噌味の方が好きだよ。
「味噌なんて滅多に手に入らないから」
 ――佐吉の所にいれば入るよ。あれで佐吉、自分で味噌を作るんだからねぇ。
 それに驚くのは俐榮である。あの男が? 自分で味噌を作る、と。
 狐はくるりと宙返りすると、男童の姿に変じた。
「こっちの方が話しやすいね」
 廃屋の中に一人が増えた。
「それで二人はどうするおつもり?」
 二人は突然投げかけられた言葉に沈黙する。
 言っていいものか、言わぬべきか。
 逡巡している頭にこつんと拳がおろされる。 野狐がその拳を俐榮と緋依の頭に落としていた。
「佐吉もあの祓い屋も心配していたよ。全く一言かけていくぐらいすればいいのに」
 呆れたような口調に二人共肩を縮こまらせる。
「ごめんなさい」
 言葉が重なった。それを聞くと野狐は二人の頭を撫でた。
「何か考えがあるのでしょう? でなければわざわざ蔵から地域図を持ってきたりなんてしないからね」
 野狐の言葉に俐榮は渋々頷いた。嘘はつけぬようだ。そう、二人には考えがあった。一十九がこれぬというなら二人が忍び込んでその家人を見つけようという計画である。
「なるほどねぇ。ま、やってみるのはいいかな。協力しましょう」
 あっさりと野狐が言う。少し拍子抜けした思いで二人は野狐を見やる。
「なぁに? 止めるとでも思った?」
 緋依が頷くと野狐はころころと笑う。
「そんなわけないでしょう。面白そうだもの、首を突っ込まないとね」
 この狐は面白いことが好きらしい。でも二人の時よりは協力者がいる分心強かった。
 夜、その屋敷を見つけようと言う話になった。昼間は目立つからである。ましてや二人は探されているのだ。見つかってはたまらない。
 夜半になるまで二人と一匹は廃屋に留まっていた。
 緋依は臆することなく野狐に話しかけるものだから困った顔をしたのは野狐である。俐榮に向けて「こんなに話しかけられたの久しぶりだ」と嘆息して言うのだから、俐榮は笑ってしまった。
 夜の帳が下りる。星がかかっている夜だった。
 二人と一匹は三人の姿になると、廃屋を出た。庄屋の屋敷というのは例外なく大きな所が多い。町の中を練り歩きながら、大きな屋敷を探すとお目当はすぐに見つかった。
 立派な門が構えられた屋敷だった。夜だからか、静まり返っている。
 裏門がないかしらと、屋敷一帯をぐるりと一周する。辛うじて見つけたのは生垣の隙間だった。
「入れなさそう」
 野狐の言葉に二人は頷く。ちょっと難しい。忍び入って怒られるで済めばいいが岡っ引きに突き出されたらえらいことになってしまう。
 でも、緋依は視ていた。
「黒い靄があるわ。あそこよ、きっと」
 俐榮も目を凝らす。たしかにそこには黒い靄が立ち昇っている。
 屋敷の作りからして、使用人部屋だろう。
 憑かれているのは使用人だということだ。
 懐から護符を取り出した俐榮はこれでどうにかできないかと思案する。が、野狐はそれを避けるように身を翻した。
「野狐はこれを持てないの?」
 緋依の言葉に野狐は頷く。
「持てないこともないけれど、ちょっと難しい」
「そっか、じゃぁ私達が行かないといけないよね」
 その時だった。黒い靄が鎌鼬のごとく移動する。
「動いてる……」
 でも、屋敷は静かなままである。
「雪隠にでも行ったんと違う?」
 茶化すような野狐に、これ以上ここにいてもどうしようもないと一旦廃屋に引き返すことにした。
 その日の朝である。
 町は朝から騒がしかった。
 朝市で食物を手に入れてきた俐榮は野狐がいないのに気づく。
「野狐はどこに?」
「何か用事があるからって出ていっちゃった。食事が終わる頃には戻るって」
「そっか」
 食事の支度を整えて、二人で鍋を囲む。今日は米も手に入ったからおじやにした。
 ほかほかと湯気の出る飯を食べながら二人は話す。
「なんだか町が騒がしくてね」
「なんだろう、やっぱり昨日のが」
「悪さをしたのかもしれない」
「だとしたら、私達、止められなかったね」
「仕方ないよ、入れなかったのだもの」
「でも、どうにか忍び込むことはできたはずじゃない?」
 食い下がる緋依を俐榮は宥めた。
「あの状態では僕達が捕まっていたっておかしくなかったろう? それじゃそれこそ本末転倒だ。だから、あの時はあれが精一杯だった」
「もし本当に呪いなら……」
「次の犠牲者が出るかもしれないね」
「だったらその前に止めなくちゃ」
「今日もう一度屋敷に行ってみよう」
「うん」
 河原で鍋を洗って、片付けをし終わった頃、野狐がやっと帰ってきた。霊体のままの狐の姿である。緋依の肩にしゅるりと乗ると、欠伸をした。
 廃屋に戻ると、野狐は变化する。男童の姿が目の前に現れる。
「佐吉とあの祓い屋もこちらへ向かっているって」
「二人も?!」
「ええ。二人が心配だからってね」
「悪いことをしたなぁ……すぐ戻ればよかったかな」
「大層心配してたよ」
 追い打ちをかけるような言葉に俐榮は眉を寄せる。何も出来ないのに、出てきてしまって、恥ずかしいったらありゃしないのである。
「まぁ、あの近道を行っているわけじゃないからまだ着かないけれどね」
「そしたら着くのはいつ頃?」
「あと四日はかかるでしょう」
 野狐はとても冷静だが、その顔には笑みを浮かべている。何か企んでいるような顔だった。
 俐榮はそんな野狐を見つつ、白湯を飲む。茶など買ってはいられないから、沸かしたお湯を飲むのである。
 三人は廃屋の中で一日を過ごした。たまに河原にでて石投げをしたりもしたが、緋依は疲れているのかすぐに廃屋に戻ると言い出し、廃屋で横になっていた。
 やはり、緋依を連れてきたのは間違いだったろうか。相当に無理をさせていることはわかっている。眠るのは筵の上だし、食事はなんとか整えているものの、朝餉と夕餉、似たような献立ばかり。
 眠る緋依の髪を梳きながら、俐榮はふとため息を吐いた。
 野狐がそれを見て意外そうな顔をする。
「後悔しているの?」
 妹を連れてきたことをだ。
 俐榮はうんと頷く。だって、あの場から出ていくのは自分一人だったら緋依にこんなに無理を強いることにもならなかっただろう。
「でも、その娘は君と一緒にいることを願っているじゃないか」
「本当に?」
「自信がないの?」
「……」
 黙った俐榮にくつくつと野狐が笑う。
「そんなに思われているのに気づかないなんて、とんだ鈍さだね」
「確かに慕ってくれているとは思うけれど……」
「この子にとって家族は君一人だ。だから君だけが唯一の存在なんだよ」
「唯一の……それは、僕にとってもそうだ」
「でしょう。だから、大事にしてあげなよ」
「うん」
 俐榮はこれから緋依と共に暮らせることに思いを馳せるのだった。

 夜半のことである。
 仁蔵はむくりと起き上がり、下男部屋を出た。
 否、仁蔵は出たような気がしただけである。夢のような現のような、そんな感覚だった。
 屋敷は静まり返っている。主人も奥方も死んだ。残っているのは怯えきった娘だけ。娘の室は奥の方にある。
 仁蔵は廊下を歩く。
 いつもだったら軋む廊下は音一つたてない。
 仁蔵はその手にいつの間にか鎌を持っていた。
 いつ、どこで手に入れたかはわからない。けれど、しなければいけないことはわかっている。
 あの娘を殺すのだ。
 寝首を掻いて、殺すのだ。
 そうすれば、終わる。全てが終わる。仁蔵の思いにも整理が着くはずだ。
 室の前に来た。
 障子を通り抜ける。娘は布団の中で縮こまって眠っていた。頬には涙の痕が筋を作っている。昼夜構わず枯れるほど泣いていた。家人の指示なんて出来ぬ有様であった。普段あれほど息巻いて仁蔵を叱りつけていた威勢はどこへやら。仁蔵は娘の上に仁王立ちになる。
 どろりとした暗い感情が湧き出る。
 嗚呼憎い、憎い。なぜあっしだけが、虐げられねばならんのです。
 憎い。憎くてしようがない。
 あっしは、きちんと働いたのに、どうしてあっしだけが。
 仁蔵はその手にもった鎌を振り上げた。
 憎い!

 朝になって娘の無残な遺体を発見した家人は大慌てで女中頭に申し付けた。
 女中頭は「私はこの家を出ます。後はお好きになさい」と言って、遠出の支度を始める。そんな姿に他の女中達も慌てて外へと出ていく支度をはじめた。
 下男も同じ様にこの家で働くことは出来ぬと知って、慌てて外へと出ていった。
 屋敷は段々と空っぽになっていく。
 誰も、娘の遺体を葬る人などいなかった。
 皆が皆、急いで外へと出ていく。
 誰もが急いで外へと出ていくなか、一人、ぼんやりと下男部屋にいるのは仁蔵である。仁蔵は誰にも声をかけられずに、乱雑に敷かれた布団の上にただ一人座り込んでいた。
 仁蔵はもう、仁蔵ではなかった。
 仁蔵はもう存在していなかった。
 誰もいない室の中で、ぽつりと言葉が響く。
「にっくい人の最期が見れて、気分もよろしやろ?」
「って言うても、もう、聞こえへんか」
 若い艶やか声だった。仁蔵の口から出るにはいささかおかしな声である。
「もっともっと、殺して欲しい人おったら殺してやったんに。望み薄なお人やねぇ。欲がないっちゅうか」
 残念がる言葉だが、その口調は軽い。
「次、どうしまひょ。我はもうあんはんの願い事は叶えましたえ?」
 尻上がりな声が仁蔵の口から出ていく。
 仁蔵の目はどこか焦点のあっていない方向を向いている。ぼんやりと、下男部屋の開け放たれた障子戸を見ている。
「ほんならしばらくここにいましょか。どこへいくあてもありゃせんもんねぇ」
 仁蔵の家族はいない。嫁もいない。帰る所は無かった。
 だからこの憑いた者の宛は無いのだった。頼るものもいない。さぞ、寂しかったことだろう。さぞ、苦しかったことだろう。
 仁蔵に憑いたモノは「はぁあ、つまらんわぁ」と声をあげる。
 せっかく仁蔵の願いを叶えたというのに、それに喜ぶものもいない。皆逃げていってしまった。皆死んでしまった。
「我がしたこと、だぁれも知らんもんねぇ。でも少しくらい残ったってよろしのに」
 主人達から縛られていた奉公人は皆喜ぶものと思っていた。だって仁蔵がそうなのだから。仁蔵は……でも迷っていた。
 仁蔵は何故殺してしまったのだろうと言った。
「我に聞かれてもこまりますえ」
 仁蔵は虚しいと言った。
「なんでやろねぇ」
 虚しく声は響く。
 仁蔵はぼんやりと障子戸を見ていた。
「すっきりせぇへんわぁ」
 憑いたモノも同じ様に、仁蔵の心に引っ張られていた。なぜだろう、これで全て終えて仁蔵は喜ぶはずだったのに。
 ふらりと仁蔵は立ち上がった。
 無人の屋敷の中をふらふらと歩む。中は夜逃げのごとく荒らされていて、物が散り散りに落ちている。食器が割れている。食べ物は皆持ち出されていた。床下の漬物までもが。
 主人の室からは金品が盗まれ、奥方の室からは着物が持ち出されていた。娘の室に近寄ってまで持ち出そうというものもいなかったせいか、娘の室にはただいつも通りの室の中に全身を赤黒くそめた娘が横たわっている。
 息はしていない。そうだ、仁蔵が殺したのだから。
 鎌でその柔肌を切り裂いたのだから。溢れ、迸る血を、仁蔵はただ見ていた。
 憎しみはただその手を動かした。主人を殺した時もそうだった。奥方を縊り殺した時も。憎しみに突き動かされていたのだ。
 仁蔵はそっとその娘の頬に手を触れる。冷たい。死んでいる。
 どうしても殺さねばならなかったのだろうか。仁蔵の意識が流れ込んでくる。
「殺したいって言うたのはあんはんやろぉ?」
 でも、殺すことは無かったのではないか。
「もう遅いわぁ。だって死んでますえ」
 尻上がりの声が仁蔵の意識に返す。
 殺そうとなど思っていなかったのかもしれない。あれは、本当に魔が差したような思いで。
「その魔が我とでもいうん?」
 だって、殺したとて、虚しいばかりではないか。一家は死に絶えて、下男も下女も皆逃げた。何も良いことは起きていない。本当に良いことなど何も無い。
 この家は廃れて潰れて行く。娘は葬られずに朽ちて行く。
 どうして、殺してしまったのだろう。あっしは。
「あんはんが憎んでいたからとちゃいますの」
 憎かった。憎かったけれど……。
 あっしが逃げ出せば済む話ではなかったのだろうか。こんなことを仕出かしてもう全うな道は歩めない。何もかも台無しにしたのは自分ではないのか。殺さなければよかった……。
「人殺しが全うな道を歩もうなんて、浅はかやねぇ。ならさいしょっから頼まんとええんに。我はあんはんの願いを叶えただけ。死ぬ所がみたい言うからそうしてあげただけ」
 嗚呼。浅はかだ。そうだ。あっしは馬鹿で愚かだった。
 人殺しが全うな道を歩めるはずがない。もう、遅いのだ。
「馬鹿なお人やねぇ。こんな化物に身を窶してまで、願い叶えたら後は後悔だけだなんて。かわいそやわぁ」
 自嘲するかのような口調に仁蔵は涙を流した。
 あっしは、あっしはしてはならんことをしてしまった。あっしが望むべきだったのは逃げることだった。遠くへ逃げて、またやり直すことだった。憎んでいたっていい、それでも逃げて自分を生かすことだった。
 あっしはどうして、殺してしまったんでしょう。
 もう戻れないというのに。どうして。
 馬鹿なことをした、愚かなことをした。人を殺すことがこんなに酷いことだったなんて。してから気づくなど馬鹿にもほどがある。あっしはどうしてまだ、生きているのでしょう。