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 一十九と佐吉は朝双子が出ていったことに気づき、慌てる一十九に佐吉は穏やかな言葉をかけた。
「まぁま、二人も何か考えあってのことでしょう。ひとまず朝餉に致しましょう」
 そういうと佐吉は厨から箱膳を運んできた。
 目刺しが四匹と瓜の漬物と青菜の胡麻和えにおみおつけ。全く整った朝餉である。佐吉の屋敷にくるといつもこうだ。いつ用意しているのやら食事にしようというとすぐ出てくる。
 食事を口にしている間に一十九の心も落ち着いてくる。俐榮は聡い子だったから、きっと大丈夫だ。
「戻ってきます、きっとね」
 佐吉は先がわかっているようなことを口にする。
「何故、わかるのだ」
「そんな気がするってだけですがねぇ。これでも勘は当たりやすい方ですから」
 一十九と佐吉は古い仲でもあった。だから佐吉の不思議な言動には慣れていると思っていたが、やはりされるとむず痒いものがある。佐吉にはなにもかもわかっているようなのに自分は何もわからない。そんな気がした。
 昼頃、村のものが佐吉の屋敷に作物を届けにきた。佐吉は礼を言いながらそれを受け取り厨にこもってしまう。一十九は手持ち無沙汰な思いで経を暗唱しはじめる。
 雑念を祓うには経を暗唱するのが一番だった。一十九はいつもそうする。
 雑念というのは生きていれば必然と生まれるもので、それに囚われると自分が見えなくなってしまうのだと一十九は教えられた。だから祓えるならばそれは無い方がよいのだ。そうすれば真に自分の姿を見つけることができる。
 何よりまず、一十九は落ち着くことを求めていた。
 経を五順したころだろうか、障子戸が開けられる。
 一十九は目を開いた。
「一十九さん、その町とやらに行きませんか?」
 急な話である。しかし、佐吉は既に外出の用意を整えていたようだ。
「だが、私が行っても何もできぬではないですか」
「それでも、気になるンでしょう?」
「そうだが……」
 佐吉の誘いに一十九はついに折れ、二人は揃って屋敷を出ることにした。
 来た道とは違う道を通って町へ向かう。六日かかって町についた。
 町につくとすぐに噂話が聞こえてきた。どこもその話で持ち切りのようである。
「あそこの庄屋の家族が皆殺しになったんですって」
「いややわ、怖い」
「どげんして死んだの?」
「なんでも惨殺されたらしいわぁ」
「旦那が死にはったあと、すぐに奥方やろ? 加えて昨日は娘さん」
「まだ若いのに可哀想やねぇ」
「ほんになぁ。怖いわぁ。下手人、捕まっていないんやろぉ?」
「下手人が見つからへんみたいなんよ。家人も皆逃げてしもうて、何もできへんみたいやの」
「よっぽどなお家だったんだわぁ」
 聞こえてくるのは一十九が祓いに行ったその屋敷の話ばかりである。
 一十九は渋面で黙り込む。
「これはこれは、お気の毒ですね」
 佐吉が言う言葉にも、憮然とした表情のまま一十九は押し黙ったままだった。
「一十九さんが気に病む必要はなさそうです。なるようにしてなったことだ」
「なるようにとは?」
 疑問に思って口を開けと、佐吉は読めない表情で続ける。
「家人が皆逃げてしまうなど、到底ありえないことでしょう? それが有り得たってことは、家人は家を好いていなかった」
 なるほど、そうである。
 あの家の家人には生気がなかった。
「確かに、雰囲気は悪かったがな」
「だから、なるようにしてなってしまったんですよ」
 佐吉はそう言うと、「だから一十九さんが気に病む必要はないんですよ」と同じ言葉を繰り返した。
 昼下がりの早いうちに一十九と佐吉は宿をとった。
 どこへ行ってもその話で持ち切りであるのが宿に入ってわかる。宿の婆様も屋敷の噂を客に話していた。近寄らないほうが良いと。
 噂とは広まりやすいものである。特にこんな町では地域の事は皆筒抜けである。村も町も、そうなのだ。江戸や浪速がどうかまでは知らないが、おおよその小さな集落なんかは人の口に戸は立てられずである。
 二人はまず湯浴みをしてから、午後の町に繰り出すことにした。
 活気づいているといえど、起きたことが起きたことだけに、道で遊びに興じている子供は早く家に帰りなさいと親から言われているし、大人達も早々に店じまいの支度をはじめていた。
 一家のものが死んだのだ。それだけの騒ぎではあった。
 そんな中、佐吉は何かを探しているようだった。
 一十九も一十九で緋依と俐榮を探したかったからちょうどいいとばかりに一十九は提案した。
「私は二人を探したいのだが」
「なら、探したいものが別ですね。別れましょうか晩には一旦戻るということで」
 一十九はすんなり佐吉からそう言われては、二人を探す協力を頼めず一人で探すことにした。元より探すという意志は固まっていたからそれでいい。
 夜が近くなる頃まで、町を歩き回るもそれらしい双子の姿は見えない。町のものは皆怯えているのであろう。だからか、夜が近くなった道を歩く姿も少なかった。
 それに二人は恐らく身を隠しているはずである。宿帳も見せてもらったが、名は無かった。探されている身である、当然かと一十九は肩を落とした。利発そうな子だったのだ。追われている身で宿などとるはずもないだろう。
 あの二人が追われている理由は恐らく、俐榮が後継ぎであるからで。それに加え双子という忌み子を外に出したくなかったからだろう。緋依は世間とは少しずれた話し方をしていた。それもずっとどこかに閉じ込められていたのだ、恐らく。
 双子だと佐吉から聞いた時は驚いたが、どこか不一致な点が符合したようにも感じた。
 俐榮は緋依が何も知らない分、きっちりと色々な知識を持っていて、遠出も数回はしたことがありそうなくらいには旅慣れをしていた。跡継ぎとなるために様々な知識を叩き込まれたのだろう。一十九は弟の身分であったからそういうことには詳しくないが、確かに朧げに思い出せる兄はいつも勉学に勤しみ、算術の手習いにも言っていた。長男とは、そういうものなのである。家を継ぐ、家を守る為に、躾けられ教えられ、生かされる。家に縛られているようなものである。
 自分は修行の為に家を出てしまったから後の苦労など及びもつかぬが、それはそれは大変なものだったろう。
 よく、殺されなかったものだ、と一十九は思う。緋依がである。
 背丈は違うものの、顔はよく似ている。面影どころではない。双子は前世で心中をした男女が生まれ変わったと言われるが、俐榮と緋依は男女の双子だ。これはもうお家ではひと騒動であったろう。死産にしたことにしてしまわれなかったのが信じられぬくらだった。誰かに、助けられたのだろうか。恐らく助けたとすれば母なのだろうけれど。母の愛は強いのだ。子を前にした母はそれくらい人が変わる。
 あの二人は双子、というだけで忌み嫌われる存在になった。だからあの二人は逃げてきたのだ。家も何もかも捨てて、ただ二人で生きる道を選んで、逃げた。
 そこに偶然行き会えたのが自分であった。
 本当に全くの偶然であったと思う。
 しかも双子であることに加えて二人は何か見えぬはずのものが視えているらしい。お家では相当に疎まれた存在であったことが伺える。俐榮は決して自分からその話をしなかったし、緋依はわかっていないながらも一十九にそのことは言わなかった。二人の秘密というやつだ。
 夜が迫ってきていた。一十九は宿に戻ることにした。何の手がかりも得られず、焦りだけが蟠る。
 一方佐吉は町から離れて山道を歩いていた。町から然程遠くない山である。
 行先、町の人に尋ねてみたが、この先には何もないと言われた。でも、この先にあるはずなのだ。
 山道は小石が転がっていて、時折草履を履いている指先にあたった。草葉が伸びに伸びて、佐吉の背も覆い隠すほどに茂っている。それでも道はあった。道らしい道とはいえないが、誰かが通った痕はある。
 夕暮れが佐吉の背を追いかけてくる。
 夜になって道を誤れば迷うことは必至。佐吉の歩みが早まった。
 四半刻ほど経っただろうか、やがて山間の草葉に隠れるようにして、小さな石像が見えてきた。石畳が敷かれている向こうには首の欠けた恐らく狐を模したものであったろう石像が一つ。さらに奥に煤けた祠があった。豪奢ではない、木造の小さな祠である。もう誰も参らないのか、あちこちに葉が積もっていて、吹きさらしの風に痛みも出ている。今にも壊れそうな廃寺だった。
 ――もうここには何もいない。
 佐吉の後ろにいた黒い狐が言う。佐吉はうんと頷いた。
 ここにいた神はもう、神では失くなっている。
「荒ぶる神となってしまったか」
 人に禍をなす神。荒御魂を宿してしまった神であった存在。
 ――神ではない。あれはただの妖かしであろう。
「神より妖かしであったほうが良いと思ったのかね」
 ――さぁな。知らん。
「天狐、君もそうではないのかい」
 ――俺は偶々だ。なろうと思ってなったのではないさ。もとより、神でもなんでもないのだから。
「喰えるかい?」
 天狐は、はんっと笑うと「当たり前だ」と童子の姿になって言った。
「人の身に災厄を齎した者はいずれ滅びねばならんのだ。喰らうてやるさ」
「頼もしいことだね」
 佐吉は寺を簡単に掃除すると、誰もいないそこに手を合わせてから廃寺を後にした。
 山を降りる頃にはとうに空は暗くなっていた。佐吉は灯りを持ってこなかったが前を歩く天狐に案内を任せて迷わずに山を降りることができた。こういう時彼等の目は役立つのである。
 宿に向かう道はひっそりと静まり返っていて、皆が外に出ない理由が窺い知れる。
 佐吉が宿に戻ると一十九は既に宿に帰っていた。
「二人は見つかっていないようですね」
「あぁ。多分隠れているのだろう。一応は追われているようだからな。そちらは?」
 佐吉は腰をおろすと、月明かりのさす窓のほうを向いてから言った。
「見つかりましたよ」
 あっさりという佐吉に一十九は口ごもった。
 何を探していたのかすら聞いていないのである。
「その……何を」
「廃寺です」
「廃寺?」
「町から少し歩いた山の方にありましてね、もう誰からも忘れられているようですが」
「何故それを」
「知っているのかって? それを探していたんですよ」
 全く謎めいた男である。意図が読めない。
「あそこはもう空だ。けれどまだ町にはいるでしょう」
「神が、か?」
「神とは呼べない代物です。人に介在して存在する神が、人に及ぼし事をなすなら、それは脅威でしょう?」
「神秘と呼ぶのでは」
「実際、竈の神が猛威を奮ってみてください。火は轟々と燃え盛る。家だって飲み込んでしまう。そうならぬように自在鉤は魚の形をしていることが多い。これは均衡を保つためです。木は根を張って土から栄養をとってしまう。土は水を濁す、水は火を消し、火は金を溶かします。金はまた形となって木を傷つける。均衡というのはそういうものです。尤もこれは相剋でありますけれどね」
 一十九の宗派ではないもののその話は聞いたことがあった。
「では、堕ちた神ということだな」
「そう。そしてそれはもう神とは呼ばれない。妖かしと呼ばれるものになりえた。妖かしは人の中にあって、事を及ぼします。その現象に名をつけたのが妖怪だ」
「現象が妖怪であるのなら、実際にはいないのでは?」
 佐吉は妖しく笑う。
「だからね、可笑しいんだ」
「何が可笑しいのです」
 一十九は夏だというのにぞわりとした寒さを感じた。
「怪異って似ているんですよ。……人間とね。そっくりです。ただそれが形を変えてしまっているだけでね」
「怪異は人だというのか?」
「元は、人間じゃないかって思うんですよ。一十九さん」
「そんな、はずは……」
 一十九は狼狽した。怪異が人だというなら、今まで自分が祓ってきたものはなんだったのか。今まで自分が信仰してきた神は誰だったというのか。足元が瓦解していくように思えた。とても恐ろしかった。
「信じていても、信じているからこそ、私達は迷うんですね」
 信じている。神を。信じている、から祓い屋を営んできた。
 でも。
 一十九は佐吉の言葉に惑わされていた。
 思考を振り払うように一十九は首を振る。先程の妖しい笑みはどこへやら、佐吉はいつもの読めない顔に戻っている。一十九ばかりが真夏の夜のように汗をかいていた。
 あの双子が視ているものは一体なんなのだ。佐吉に見えているものは何だというのだ。
「大丈夫ですよ、一十九さん。二人とはまた会えます」
 穏やかな調子で佐吉が言う。
「私には佐吉の自信が分からぬよ」
「自信じゃありません。事実ですよ」
「もう会えたかのような言い方だ」
「はは。まだ会えちゃいませんがね。二人は地域図を写して行ったようだから、戻るのだと思いますってことです」
「そうなのか?」
「私が蔵の戸に錠をつけないのはご存知でしょう?」
「ああ」
「朝にね、出入りしたようでしたから」
「よく気づかれたな」
「住んでいる家ですからね。まぁそれくらいは」
 佐吉は荷物から出した干菓子をぽりぽりと食べる。一十九にもすすめるが、一十九はそれを辞した。余りにも動揺していたのだ。
「お屋敷も空のようですし、行くなら夜ですかね」
 当たり前だとでもいう風に言った佐吉に一十九は飲んでいた茶を噎せた。
 何度か咳払いをし、呼吸を落ち着かせてから一十九は答えを返す。
「忍び込むとでもいうのですか」
「しのぶなら夜と、誰かに聞きました」
「しかし、人様の家だ」
「かといって門を叩いても家人が皆出払ってしまったのでは迎えてくれる人もいないでしょう」
「だが……」
「気が向かないなら一人で行きましょう。一十九さんは待っていてください」
「いや、行こう」
 佐吉一人に自分の気がかりを押し付けるのも悪い気がした。こういう所が一十九の根の良さである。
「ではそれまで眠りましょうか」
 行灯の光はそのままに、二人は布団に就いた。
 じりじりと、行灯の油が焼ける音がする。
 一十九はぼんやりと天井を見上げたまま、寝付けずにいた。佐吉の方はこちらには背を向けているから起きているのかはわからない。
 さっき言われた言葉がまだ頭の中をぐるぐると回っていた。怪異の元は人間ではないか、と。何故佐吉がそんな話をしたのかは分からなかった。怪異の元など、今までの一十九には関係がなかったからである。それがあると分かれば祓う。これが一十九の仕事だったからだ。
 けれど、怪異がもし人であるならば。一十九がしていることは全て無駄なのではないか、と思えた。
 人に人は払えない。だからそれを怪異と称して祓えるべくモノとするのだろうか。
 人が人に害を及ぼす。
 こんな例は伍万とある。人は影響しあって生きているものであって、人は人無しには生きる事ができないのだ。だから、時には害を及ぼしてしまうこともある。一十九はそう考えていた。
 けれど怪異は違う。
 怪異は不可解で、人の理解の範疇を超えた生き物だ。それを理解してはいけないというような、古い因習のような存在だった。理解してしまえば、自分は自分で無くなってしまうような、輪から外れることになってしまう。だから、理解してはいけない。そんな、存在。
 佐吉は理解しているのかもしれぬ。
 否、理解しているのだろう。
 佐吉の人とずれた所はそんな由縁故か。一人、あの広い神社に暮らす事ができるのも、一十九にとっては考えられぬ事だった。寂しくは、ないのだろうかと、そう思った。しかし佐吉にそれを尋ねたことはない。聞いても恐らくはぐらかされて終わりな気がした。
 つらつらと思考に耽っているといつの間一十九に眠りが訪れていた。
 夜半、一十九は佐吉に起こされて目覚めた。
「一十九さん、そろそろ出ましょう」
 一十九は起き上がると荷物を持った。宿の一階に降りる。皆が寝静まっている頃だ。出口の方は施錠されているので勝手口の鍵を開けて出る。
 月明かりが土道を照らしていた。
 一十九は庄屋の屋敷までの道を歩む。今頃、あそこはどうなっているのか、そればかりが気がかりで仕方なかった。佐吉は一十九の横をぽつぽつと歩いている。とった宿から庄屋までは少し距離があった。
「こんな夜更けに出歩くのも乙なものですね」
 佐吉が言う。
「事情が事情でなければ月見酒でもしたいところですな」
 一十九も話にのった。
 月が綺麗な夜である。俐榮と緋依もどこかで眠っているだろうか、それとも月を見ているだろうか。
「帰ったらしましょう。一十九さんがお暇でしたら」
「私は諸国行脚しているだけだからな、留まろうと思えば長くいられる。しかしそれでは佐吉に申し訳ないだろう」
「なに、私はこれといってする事がありませんから、暇なものですよ」
 本当に佐吉はいつも何をしているのだろう、一十九は考える。一十九がはじめてあの村に行った時から佐吉はあの屋敷に住んでいた。はじめは神社かと思って参拝しにいったのである。そしたら着流し姿のあの男が出できて茶をすすめてきた。一杯茶では縁起が悪いともう少し飲んでいくように言われてあの屋敷に踏み入ったのである。
 庄屋の屋敷は灯りひとつ、点いていなかった。ただひたすらに暗い。
 暗雲をその上空に漂わせているような、そんな雰囲気である。
 皆、逃げ出してしまったのだ。中からは物音ひとつ聞こえず、ひっそりと屋敷だけが残されていた。
「では、行きましょうか」
 佐吉は言うと門の敷居を跨いで屋敷の庭に入った。
 庭にある花の首が落ちている。玄関を引くとガタガタと音を立てながら戸が開いた。施錠もされておらぬところに、誰もが逃げた事実が読み取れる。
 もうこの屋敷には人がいないのだろうか。来ても無駄だったろうか。
 明かりも灯されていない室内は暗く、佐吉が手にもった蝋燭に火をつけた。ぼぅっと辺りが照らされる。
 玄関ですらも酷い有様である。花瓶は割れて、草履があちこちにばらけている。何か物を持ち出したのか、着物の残りが転がっていた。
 佐吉は迷いなく進んで行く。
「娘さんが殺されたのは奥の間でしょう。手口は毎回夜半のことだったそうですからね」
「そう、だな。旦那も、奥方も朝見に行ったら亡くなっていたそうだ」
 物の散らばる廊下を進み、奥の間に行く。
 異臭が鼻をついた。
 何かが腐る臭いである。夏の暑い匂いに混じって、腐り落ちた肉のような臭いがする。
 障子戸が半端に開いていた。この中から異臭がするのだ。一十九は思わず鼻を覆った。
 事実を見なくてはならなかった。一十九は覚悟を決めて、和室の中を見る。
 そこには、無残な姿で斬り殺された娘が横たわっていた。血で布団が黒く染まっている。家人の中には誰も弔う者はいなかったのだ。悲しい話である。置き去りにされた亡骸はこうして二人が来なければ、誰の目にもつかず忘れ去られたまま夏の暑い中朽ちて腐り落ち、消えていったのだろう。
「これはこれは、酷い。後で葬いに出さねばなりませんね」
 佐吉は眉を寄せて言う。
 もう、息がないのは遠目にしてもわかった。
 あの時喋っていた娘の息がないというのは、とても信じられない。信じたくないもので、一十九は悔しそうに歯噛みする。
 助けられる手立てはなかったのだろうか。あの時自分が屋敷ごと祓うといえば話は違ったかもしれない。でも、もう後悔でしかなかった。事は起きてしまったのだ。
 佐吉は暫く娘の亡骸を見てから、、母屋から離れると言った。何か、あるのだろうかと、一十九もそれについていく。
 佐吉は縁側から降りると、長屋建てになっている家屋の方へ向かった。こちらは一層酷い有様だ。物は落ちているし布団は乱雑に敷かれたままになっている。箪笥が口を開けたまま時を止めていた。もう誰にも閉じられることはないだろう。
 その時だった。
 母屋の方から声が響いたのは。
 天狐はすぐさま佐吉の背後から飛び立つ。声のする方へ。
 あの声は、緋依のものである。

 俐榮と緋依は野孤とともに廃屋の中で日が暮れるのを待っていた。
 夕餉もそこそこに、緋依が護符を懐に入れて屋敷に行くことに決めて、二人は廃屋を出た。野狐は狐の姿に変わってついてくる。
 屋敷までの道のりは昼間歩いて行った通りだ。ただ空が暗いだけで。月明かりは青白く地上を照らしていた。
 二人はぱたぱたと歩く。土を踏む足音が狭い道にこだました。
 夏だというのに虫の声ひとつしなかった。不気味である。
 山に囲まれている土地だというのに、屋敷の周りは雑木林のようになっているのだ。だけれど、鳥はおろか虫一つ鳴かない。
 目指していた屋敷につくと二人は正面から入って、母屋を歩きだす。緋依にも俐榮にも、あの黒い靄が立ち上っている場所が視えていた。だから、行先はひとつだ。
 二人は廊下を潜みながら歩き、目的の室にたどり着いた。障子戸が開いている。二人は中をうかがった。
 中は大広間で、掛け軸が忘れ去られたようにかかっている。畳敷きの広い広間の真ん中にぽつんと座り込む男が一人いた。
 そうだ、あの男である。あの男が取り憑かれた下手人なのだ。
 靄に周囲を囲まれて、ほとんど男の姿は見えなかった。緋依が近づこうとするのを俐榮は止めた。あれは、今まで視た中で一番酷い。とても黒く、暗い、闇だった。
 ガタリ、と戸が鳴った。二人の体重がかかって動いてしまったのだ。
 二人の肩が跳ねる。
 男がゆるりとこちらに顔を向けた。ばれてしまったなら仕方ない、二人はそろそろと中へ入る。
「あらぁ、うちが視えるん。珍しねぇ」
 ころころと鈴のような声がした。
 あの男から出ているけれど、あの男ではない。黒い靄が喋っている。
「なぁに。こんなとこになにしにきたん?」
 優しい、母親のような声だった。
「あなたが、殺したの?」
 緋依がぽつりと口を開いた。
「我が? お手伝いしただけよ。みぃんな、この男が望んだこと」
 そう言って男は自らを指差す。男の目が二人を射抜いた。二人はもう後戻りできなくなったと気づく。ここへ来たのは正しいことだったろうか。
「ほら、こっちおいでぇな」
 男が手招きした。二人は、はたり、はたり、と歩きはじめてしまう。何かに操られているかのように。
「兄様……」
 緋依が不安そうに声をあげる。
「緋依……!」
 俐榮よりも前を緋依が歩んでいた。それを止めようと俐榮は手をのばすが、届かない。
「こっちおいで」
 黒い靄が喋る。まるで呼応するかのように靄が蠢く。
 まずい。このままでは飲み込まれてしまう。あの靄に。
 早足になって緋依が靄の方へ向かって行く。とうとうその足は男の元につこうとしていた。
「緋依!」
 叫ぶも、緋依の足が止まることは無かった。
 靄に触れた緋依は黙っていた。
 数秒が半刻に感じるほど長く。靄から振り向いた緋依の手には、護符があった。護符は男の胸に当てられている。
 緋依はこちらを向いてにこりと笑う。
 無事だったのだ、と俐榮が近寄ろうとすると、男の腕が伸びて緋依の首を羽交い締めにする。
「うまそうやし、とりころしても、ええんよ?」
 男が、靄が喋った。尻上がりな声であっけらかんとまるで楽しんでいるかのように喋る。
「にいさ、ま。逃げて!」
 苦しそうに眉を顰めながら緋依が叫んだ。声は屋敷中に響いた。
 でも、俐榮は逃げようとなど、最初から考えていなかった。ここで逃げてしまって、後悔するのは自分だ。
 後からする後悔ならもう十分してきた。幾度緋依を連れ出して逃げようと思っただろう。屋敷女中に飯も与えられてないと知って、やっと踏ん切りがついたのだ。それまでは、ただ、臆病なだけだった。あの牢の中に緋依を閉じ込めたまま、それでも二人で生きることができたらと思っていたのだ。
 全くもって、浅はかだった。
「そんな、そんなことできない。置いて行くくらいなら一緒に」
 共に死んだ方がましだ。助けられることなら助けたかった。
 でも俐榮には手がなかった。護符はもう黒く焦げたように畳に落ちているし、緋依を人質にとられている。今逃げても逃げなくても、緋依は殺されてしまう。
「かわいい娘さんやねぇ」
「っ……離せ! 緋依を離せ」
「あらぁ怖いわぁ、そんな顔して」
 俐榮は不思議と震えていなかった。ただ、手をぎゅっと握りしめて、緋依の元へ走り出す。緋依が目を見開いているのがわかった。でも構ってなどいられない。その指先に、緋依の柔く小さな指が触れた。