ASiGaRu


 風が頬に触れた。冷たい風だった。
 悧榮は目を開ける。緋依が腕の中にいた。
 二人から少し離れた場所に、あの黒い靄が狐と思しき姿をとって、もう一匹の黒い狐に喉仏を噛みちぎられている姿があった。
 風は、天狐であったのだ。
「天狐さん……?」
 緋依が腕の中で呟く。確かにその姿は天狐である。
 天狐はこちらに目を向けない。その視線はただ目の前の化物にだけむけられていた。
 靄がぐわりと大きくなって天狐を包むようにするが、天狐は後ろにひとっ飛びするとそれを避けた。お互いに、攻防が続く。
 靄は必死に天狐を避けようともがいていた。
 すると男が急に悲鳴をあげはじめた。
「あっしが悪うございました! あっしが呪い殺すなんて願ったから! あっしが全て悪うございましたんです。どうか、どうか殺さないでおくんなまし!」
「死にとうございません」
 男の声に二人は驚く。
 こんどははっきりと男の声だったからである。あの、尻上がりな幼女の声ではなかった。慈母を感じるような蠱惑的な声ではなかった。
 喉から絞り出されるのは悲痛な叫びと嗚咽だった。
 男は目も鼻も水に濡らして、泣き叫んでいた。
「あっしは人を殺してしまった。あっしが殺してしまった。嗚呼、嗚呼、なんということだ。人の道を踏み外すのがこんなに容易いとは思わんでおった。どうして、殺して欲しいなどと願ったんでしょう。憎さに、あまりに憎かったから、いや私の心が醜いのです」
 男は誰に言うともなく喋り続ける。滔々と、流れるような心の痛みが、吐き出される。悧榮と緋依は室の中で二人固まったまま、どうしたら良いかと迷っていた。
 狐達は相変わらず互いの首を狙って戦っていたが天狐の方が優勢に見える。
 広間の畳は狐の爪によって引っ掻き傷が至る所についている。目にも留まらぬ速さの戦いであったが、追える範囲で見ればやはり天狐が強かった。
「あっしは……殺してしまったのです。死にとうございませんが、償うには、死しか」
 そう言って男は、手を懐に差し入れた。
 緋依と悧榮は男が懐から小刀を出すのを見て走り寄る。悧榮はまず男の腕を掴む。酷く強い力だった。子供では太刀打ちできぬような。渾身の力を込めて俐榮は男の腕を掴む。
 緋依が刀を持つ手から刀を奪い取ろうとする。緋依の手に刃があたって血が滲んだ。
「緋依、駄目だ、手を離せ」
「一人より二人よ、兄様」
 悧榮は緋依に手を離させることを諦め、男を宥めにかかった。
「落ち着いて下さい、あなたの名前はなんと?」
「あっしは……あっしは仁蔵と申します。どうかその手を離して頂けんか」
「仁蔵さん。何も死ぬことはない。だから、生きてください」
「あっしには、生きる価値など何もないのです。人を呪い殺した者が生きる場所など、どこにもないのです。死にたくはない、死にたくはないけれど、殺めてしまった罪を償うには死しかありゃせんです。ですからどうか死なせてください」
 鋭い刀のような言葉だった。
 悧榮は彼が後悔していることがわかった。だって、彼は良心の呵責に耐えきれずに泣いている。自決しようとまでしている。なら、彼にはまだ良心が残っているということだ。だったらこの男が死ぬ必要は無いのではないか。
 天狐が狐の靄に馬乗りになった。喉元を再び噛み切り、吐き捨てる。首は散り散りになって、靄が霧散していく。
 ――喰らう価値もない。
 悧榮と緋依は天狐がそう言うのを確かに聞いた。
 靄が霧散していくと同時に、男の強情なまでの力がすぅっと弱まり、手から懐刀が抜けていく。ばたり、と仁蔵は倒れた。
「仁蔵さん!」
 緋依が血だらけの手のまま仁蔵に触れた。悧榮は仁蔵の口元に耳を寄せる。
「生きているよ」
「よかった……」
 何故、人を殺した男が生きていることを喜ぶのか、二人の胸中は複雑ではあった。けれど、人の死というものは得てして悲しいものであり、例えそれがどんな人であろうとも、悲しむ人はいるのである。
 開いていた戸の方から急ぎ足の音がして、二人はそちらを向く。
「無事でなによりで、悧榮、緋依」
「佐吉さん!」
 声をあげたのは緋依だった。そこには一十九の姿もある。
 そして、佐吉の前には野狐もいた。どこに行っていたのかとか色々と聞きたいことはあったけれど一十九がいる手前そう易易と話し始めることもできないのだ。
「一十九さん。この男が下手人です。今は卒倒しているようですが」
 佐吉の言葉に一十九は頷く。
「この、男だったか」
 一十九には見覚えがあった。何か理不尽なことを申し付けられても「へぇ。あっしが悪うございましたんです」と頭を下げる男だった。なんと不甲斐ないものだろうと思っていたが、まさかこの男が。
 一十九は男に近寄る。
 男は微かに息をしていた。でも、その目は開かない。彼は、本当に幸せだったのだろうか。庄屋家族を殺したことで彼の溜飲は下がったのだろうか。一十九にはそれが気がかりでならなかった。だって、殺してしまったのだ。
 人を殺せばこの世の中ではただでは済まない。けれど、この男はその罪を為してしまったのだ。一十九は酷く辛かった。あの時自分が家人を全て祓えていれば、このようなことは起きなかったのではないかと思うとやりきれぬ想いが一十九を包む。
 朝が近い。鳥の囀りが外から聞こえてくる。雑木林が風に吹かれこそかさと音を鳴らした。
「さて、弔いの準備もしないといけないですし、あとはこの仁蔵さんでしたか、も始末をつけないといけませんねぇ。緋依の手も手当しなくては」
 佐吉が言った。
「始末って、どうするの?」
 不安気な顔で緋依は尋ねる。悧榮も佐吉の方を見た。二人の似通った視線に佐吉はふふと笑うと言う。
「人を殺したとて、呪い殺したんですから。なにしろ下手人さえ掴めていないという。これでは仁蔵さんは捕まらない」
 悧榮が懐から布をだして緋依に握らせる。白い手ぬぐいは赤く染まった。
「あっしは、死ねないんですか」
 息を吹き返した仁蔵が上体を起すとぼんやりとした目でそう言い放つ。
「そうですねぇ。あなたが殺したという証拠がないでしょう? あなたは凶器を現場に置いていったままだし、誰もあなたがやったところを見ていたものもいない。だからあなたは刑罰の対象にならないのですよ」
「そんな……あっしは、あっしはしてはならんことをしたと言うのに」
「ひとまず、朝になれば人が来るはずですから」
 佐吉はそういうと、濡縁に腰掛けた。
 緋依と悧榮も、霧散していく黒い靄がもう残っていないのを見て安心すると、部屋の隅に二人で座る。野狐が緋依の膝に乗った。
 一十九は荷物から繃帯を出すと緋依の掌に巻きつけた。
「あとできちんと手当をしよう。ひとまずはこれで」
「ありがとうございます、一十九さん」
 それから一十九は仁蔵の隣に腰掛けるとなにやら経を唱えはじめた。経は一十九なりの心遣いなのであろう。
 仁蔵はぼんやりとしたまま中空を見つめている。そんな様子を双子は見ていた。
 鳥の囀りで外がいっぱいになったころ、蝉の鳴き声もしはじめた。朝が来たのだ。
 門戸の方から、人がやってきた。
 佐吉が手を振るとこちらに気づいて歩んできた。
 一人は僧侶で、恐らく一人は役付のものだろう。かっちりとした着物に身を包んでいたから。
「この度はご不幸があったとのことでお呼び立てを受けましたが」
 最初に喋ったのは僧侶だった。
「えぇ、家人皆が逃げ出して、捨て置かれておりましてね。代わりに弔いを出そうかと」
「誠にありがとう存じまする」
「さて、私は罪人がいるとのことで来たのだが」
 今度は役人だった。緋依と悧榮はちらりと仁蔵を見る。
 仁蔵は這っていって、伏して泣きながら言った。
「あっしが、殺したんでごぜぇます。申し訳ねぇことをいたしやした。どうか、どうかあっしを殺して下さい」
 役人は片眉をあげる。
「ここで庄屋の旦那と奥方、娘を殺されたと聞いたが、そのことか?」
「そうでごぜぇます。全部、全部あっしがやりました」
「だがな、証拠というものがないのだ。こんなことは言いたくないが、まるで妖かしに取り殺されたように、誰も殺された時に怪しい人影など見ておらんのだよ」
「ですが……あっしが」
「いくら自白されても、証拠がなければ引っ立てられんのだ。名は?」
「あっしは仁蔵と申します。この屋敷で下男として働いておりました」
「なら、もし仁蔵が殺したこととしよう、それでも仁蔵にはなんの証拠もない。だから君はできて穢多に身分を落とす奴刑程度にしかならんよ」
 仁蔵は酷く辛い顔をしていた。その顔は涙と洟水でぐちゃぐちゃである。
「それでも、それでもいいですから、どうか私に刑を」
 これほどまでに懇願されては、役人も困ったとばかりに首を掻いた。
「どうしてもというならそうするが、それでいいんだな?」
 実際、誰も人殺しの現場を見ていなかったし、出入りする影一つ無かったのだから。仁蔵は刑にはかせられないのが普通であった。
「ではこの者は連れてゆくが、よいか?」
 役人が縄で仁蔵の手首を縛りながらいった。否という者はいなかった。
 手首に縄をつけられた仁蔵はようやく生きた心地がするというかのように、ほんのりと笑顔すら浮かべている。少し不気味であった。でも良心の逃げ場が見つかったのだろう。
 悧榮と緋依はそんな仁蔵の後ろ姿を見ていた。
 仁蔵と役人が出て行くと、今度は僧侶の番だった。
 室を移動して、娘の朽ちゆく遺体に僧侶は手を合わせる。なるべく綺麗に身衣装を整えて、後からやってきた小坊主たちが持ってきた木棺に遺体を納棺する。
「家人もいないということは、野辺送りの人もおられないわけですな」
「それなら、私と一十九さんが」
 佐吉が言う。緋依と悧榮は黙ったままだった。
「ではお二人と小坊主に手伝ってもらいましょうか。後は、花籠を持ってもらっていいかなそこの娘さんには。龍頭を君に」
 黙っていたままの二人だがそれには頷いた。二人は弔い事をするのははじめてで、それもどこの誰とも知らんぬ者を弔うのは不思議な気分であった。
 午の内に準備を整えて、野辺送りに出たのは正午だった。
 暑い太陽が地上を照らす。
 先を歩く二人の手にはそれぞれ花籠と龍頭がある。位牌はなかった。後ろには小坊主と佐吉、一十九の担ぐ木棺。
 村の外れの墓地に向けて、その一行は進んだ。
 風にぱたぱたと旗がはためく。
 青々と茂る草の間を、蟻の行列のように人の少ない野辺送りは歩いていた。
 木棺を土葬して、一通りの作業が終わり、経をあげると僧侶と小坊主達は両手を合わせてお辞儀をして去っていった。
 残された四人は顔を見合わせる。
「さて、私は行く所があるのですが、三人はどうします? 寝ていなくてお疲れでしょう」
 佐吉が言う。
 悧榮は緋依の調子が悪いのはわかっていた。一十九はどうするのだろう。
「僕らは、ちょっと休みます」
「なら一十九さんに宿に案内して貰って下さい。あんな河原じゃぁ休めるものも休めんでしょう」
 何故、知っているのかとぞくりとする。だが、にやりと笑う野狐を見てわかった。野狐から話を聞いていたのだろう。全く、それならば一十九さんたちがこの町についた事もわかっていたはずなのに伝えてくれなかったのか。さすが狐である。
「では私は二人を案内してこよう。佐吉はどこへいくのだ」
「廃寺に。少し供養をと思いましてね」
 一十九達と佐吉は別れて、三人は宿に向かった。
「河原におったといっていたが……」
「河原にね、ちょうど廃屋があったの。そこで兄様と隠れていたのよ」
「危ないとは思わんかったのか?」
「お家の人に見つかるよりましだわ」
 そう言った緋依には一十九は「すまぬ」と言う。
「ううん、一十九さんは悪くないの。逃げ出してきた私達には当然の報いですもの」
「そうか……」
 全く平気だというふうにあっけらかんとした緋依に一十九は哀れみを覚えた。こんなに聡明な娘が忌み子であるばかりに殺されるか閉じ込められるかの運命しか与えられないのだから、残酷な話である。
 宿に入ると、敷かれっぱなしになっていた布団に一十九は二人を横たわらせた。緋依など半分眼が眠っていた。すぐに緋依はすぅすぅと寝息をたてはじめる。悧榮の方は嫌に目が冴えているらしく、何度も寝返りをうっていた。
 一十九も壁に背を預けて、少しうとうととする。はっと起きたのは、昼餉が運ばれてきたからだった。佐吉と一十九がとった宿は旅籠屋であり、食事もついてくるのだ。
 女将は三人分の食事を運んできてくれた。一十九が礼を言うと女将は出ていく。
 一十九は二人を起こそうか迷ったが、その前に悧榮はもそりと布団から起き上がった。
「飯だ、悧榮。緋依は起きそうか?」
 悧榮は目をこすりながら緋依のほうをみる。それから肩をたたいて耳元で喋った。
「緋依、ご飯だ。起きて」
 すると緋依も「うぅん」と唸りつつも起き上がった。
 三人で膳を囲む。一汁一菜に干物とお吸い物、それから漬物がついている。三人揃って手を合わせ食べ始める。
「佐吉さん、遅いね」
 緋依がぽつりと口にする。
「あやつは時折私らには理解できぬところに生きているからなぁ。そのせいやもしれぬ」
「理解できないところって?」
 緋依の疑問に一十九は少し考えて答えた。
「人とは違うものを視ているし、考えている。同じ世に生きてはいるが、佐吉だけは違う世を歩いているような気がするのよ。まぁ戯言だ、聞き流しておくれ」
 事実、彼はつかめない男である。何を考えているのかも、何を望んでいるのかもわかりにくい。それでも行った結果が一本筋の通った行動であったことは、後からわかるのだ。だから浮世離れしているとでも言えば良いのか。

 佐吉は弔いを終えたあと、天狐と野狐と共に、あの廃寺に向かっていた。
 狐を祀る寺とは珍しいものなのに、廃れてしまったことはとても悲しい話だった。寺社は詣でるものがいなければ、簡単に無くなってしまう。それは、この廃寺のように。忘れ去られてしまえば、消えてしまうのだ。だから神は人の記憶に残りたいと願う。人の記憶に残る限り、神は生き続けることができる。存在し続けることができる。沢山の縁起話などはそのために広められているようなものである。その寺社がいかに良い存在であるとか、徳が高いとか、勧善懲悪であるとか、そういうことを教える話の多いこと。
 人がいて、神は存在することができ、神がいて、人は存在することができるのである。
 背丈ほどある草木を掻き分けながら山道を登り、やがてあの廃寺につく。
 打ち捨てられた廃寺はただ一人ぽつんとそこに建っていた。天狐と野狐はくるりと宙返りをして人の姿を現す。そして、廃寺の掃除をはじめた。
 佐吉はそこで、持っていた紙と筆、墨つぼを用意して、書を書き始めた。
 それは、総代に向けて手紙を認めていたのである。この廃寺の供養は佐吉ができるものではない。しかしこれをそのままにしていても決していいことはない。だから、この寺を供養してほしいとの旨を込めて、墨を綴っていた。この寺の分神元である寺に向けてだ。
 寺は壊すにしても供養が必要なのだ。もうここには神は存在していないけれど。
「終わったよ」
「大方綺麗になりました」
「ご苦労だったね二人とも。こちらも後は書状を出すだけだから」
 さっきよりは埃もなくなって、見るからに綺麗になった寺を見つつ、佐吉は言う。
「もう、神はおりませんけどね。この天狐に喰われて」
「あんなもの喰っておらん」
 二匹の狐は軽口を叩く。
 佐吉はじっと寺の方を見て、口を開いた。
「捨てられた神はいずれ消えていく」
 佐吉の言葉に二匹は顔をあげる。
「でも、この神は荒神となった。それはひとえに人を愛していたからでしょう。自らの身を貶してでも、仁蔵さんの願いに答え、彼を救いたかった」
「救う果があれでは、救いとはいえんかったがな」
「でも、あの男の願いは叶えられたのだから」
「救われませんねェ……」
 ぽつりと、言った佐吉の言葉は夕闇の空に飲まれていく。
 宿に戻った佐吉を三人が出迎えた。緋依も眠って元気を取り戻したのか、起きていた。
「今夜はここで明かして、明日には帰りましょう。二人も一緒に」
 佐吉の言葉に目を見開いたのは二人である。
「いいん、ですか?」
 悧榮は動揺していた。
「構いませんよ。人が少ないですから賑やかになっていいもんです」
「ありがとうございます、佐吉さん!」
「えぇ、えぇよろしくお願いしますね、悧榮、緋依」
 一十九は安堵していた。二人の行き先が佐吉の元ならば安心だろう。もとの家に戻るのは二人にとって良いこととはいえない。緋依はこれまでどおり、陽の当たらぬ場所に閉じ込められてしまうのだろうし下手をすれば二人はこの先会えなくなってしまうことも考えられる。
 頭を振って一十九は嫌な考えをしめ出した。
 夜が明けて、朝になった。旅籠で食事をとって、四人は出立することにした。
「私はここからまた他に行きます。元気でな、二人とも。そして佐吉も、よろしく頼む」
「よっく面倒みさせてもらいますから、ご安心下さい。一十九さんも良い旅を。たまには寄って下さいね」
「あぁ」
 挨拶を交わす二人の下で、緋依は困り顔をしていた。
「一十九さん、もう行ってしまわれるのね」
「すまないなぁ。だが私もまだまだ修練を積まねばならん。佐吉の所にいればまた会えるさ」
「一十九さん、ほんに、ありがとうございました」
「悧榮、緋依をよく守ってやるのだぞ」
「はい」
 一十九は二人の頭を撫でて、三人とは反対の道へ歩きはじめた。
 三人はあの鳥居のある屋敷への道を進みはじめる。
 田舎の山道を歩きながら、佐吉は言った。
「お二人はあの町の隣村に住んでいたとか」
「はい。大きなお屋敷がある所です」
「あぁ、なら知っているかもしれません。そうでしたか」
 握っている緋依の手が嫌に熱いのに気づいて、立ち止まり、緋依の額に自分の額をあてる。
「熱ですか?」
 佐吉が言った。その言葉に悧榮は頷く。
「ならおぶいましょう。ほら、緋依こっちに」
 そう言って佐吉は腰を落とす。緋依はふらふらとした足取りで何も言わず佐吉の背に身を預けた。熱のせいで頭が回らないのだろう。
「すみません、佐吉さん」
「いえいえ、構いませんよ。道中は辛いでしょうが少し我慢してもらいましょう。薬を持っていますから後で飲ませるとして」
「荷物、持ちます」
「いいんですか? ありがとう悧榮」
 佐吉は悧榮に荷物を預ける。悧榮は三人分の荷物を持つと、佐吉の後を追った。
 道中休める所では緋依は寝かせて、佐吉の持っていた薬湯を飲ませ騙し騙し帰路を進んだ。どうなることやらと思ったが、やっと屋敷についた頃には、緋依も歩けるようになっていた。佐吉の背で眠っていたおかげか、元気になったとまで言う。佐吉はそんな緋依の背中を見ながら、疲れがたまっていたんでしょうと朗らかに微笑んだ。
 佐吉の持っていた薬の効能はすごいものだったのだと悧榮は驚いていた。いつかどこで薬を手に入れているのか聞いてみたいとも。
 鳥居を越え、屋敷に入ると天狐と野狐は姿を変え、荷物を運んだりと家事に勤しみはじめた。手伝おうとした緋依と悧榮にはきつく休むようにと言い渡し、二匹が家の切り盛りをはじめた。
 二組敷かれた布団をお互いくっつけると、緋依と悧榮は顔を突き合わせながら、話し始める。まだ夕方なのだ。いくら歩いて帰ってきたとはいえ、遊び盛りの子供に夜は早かった。
「佐吉さん、いい人ね」
「そうだね。まさか、家に置いてくれるとは思わなかった」
「何かお手伝いできるようにならなくちゃね」
「うん。緋依はゆっくりでいいから」
「やだ、そしたら兄様に置いて行かれてしまう」
「置いて行かないさ。待っているから大丈夫」
「そしたら、お家の掃除から始めるのがいいのかな」
 緋依が思案気に言う。思いつく所といえばそれぐらいだったのだろう。座敷牢の掃除は自分でしていたのだから。
「そうだな。それくらいからはじめるのがいいかもしれない」
「お料理は、佐吉さんお上手だものね。教えてもらいたいなぁ」
「きっと頼めばいつか教えてもらえるよ」
「そうかな。そうだといいな」
 緋依は笑顔だった。
 こんなに晴れやかな緋依の笑顔を見たのはいつぶりだったろうか。それもこれも、逃げてきて一十九と佐吉に出会えたからである。二人には感謝してもしきれない。天狐と野狐にも。
「そういえば、天狐さんにお礼を言ってなかったね」
「後で言いにいこうか」
「うん。野狐さんにもね。きっと野狐さんが天狐さんを呼んで私達を助けてくれたのだと思うの」
 あの時、緋依が人質にとられたとき、共に死のうとまで思ったあの時、天狐の助けがなければ二人は今頃いなかっただろう。野狐は途中から姿が見えなくなっていたけれど、それは天狐を呼んできてくれたのだと仮定すると辻褄が合う。だから、二人には礼をしなければ。
「うん。きっとそうだ。あとで二人にもお礼をいいにいこう」
「そうしましょうね」
 緋依の目が微睡んでくる。それからゆっくりと瞼が閉じられると緋依はすぅすぅと眠りはじめた。
 横で、悧榮も身体を落ち着かせ、瞳を閉じた。旅の疲れをためた二人は久々に、否いつぶりだろうか、二人で寝付くのだった。
 和室には二人の寝息だけが聞こえていた。
 佐吉は佐吉で二人の寝床だけ整えると休むように言い、一人、室に戻っていった。
 棚の中には膨大な量の和綴本が並べられている。それに背を向けるように文机に向かって佐吉は腰をおろした。
 久方振りに外に出て足が痛い。少しは体を動かさねばなと思い、数日中には村の畑を手伝いにいくことに決めた。二人もいるしちょうどいいだろう。眠っているであろう緋依と悧榮の顔を思い浮かべつつ一人頷く。
 一枚、書状を取り出すと佐吉は文を認めはじめた。
 それは、あの二人の生家への文だった。時候の挨拶からはじまり、心中を察する旨と二人をお預かりしているという旨。そして、極めつけは双子という言葉だ。
 文は、なるべく、気を荒らげないように配慮した文章で、双子をこちらでお預かりしたいとの言葉でしめられていた。
 佐吉としては人攫いのような真似はしたくなかったのである。あちらが片割れだけを返してほしいというだろうことも考えて文には二人を共に預かると書いた。一人ならば預からないとも。要するには一人をもらっていくならば返さないという意味にもとれるだろう。これでも二人を返してほしいというならそれはその時だ。あちらにとっては悧榮が跡継ぎなのだろうから、返してほしいだろうが、緋依を再び閉じ込めるような真似をするならそれは認めたくない話だった。
 緋依だけでも預かることは可能だったが、二人は共にいたほうがいいだろう。あれだけ仲の良い双子だ。二人で成長する方がより良いのだと佐吉は思う。
 だから二人を預かると書いたのだが、これが吉と出るか凶と出るかまでは佐吉には読めない。けれど、なんらかの反応が帰ってくるならそれが芳しいものであることを祈るばかりである。
 あの双子を預かるぐらい佐吉には懐の痛みは無かったのだ。だから一十九に頼まれた時は驚いたものの、構わぬと言った。視えるからにはそれまで苦労もあったことだろうし、佐吉としても視える者に会うのは久しぶりだったから少し心が騒いだところもあった。
 書状をまとめると、封をして横の棚に置く。
 文を出すのは町飛脚がこの村に来る頃だから遅くなるだろう。それくらい、この村は辺鄙な土地でもある。視える者が隠れ棲むにはうってつけというわけだ。佐吉も、この屋敷が見つからなければ路頭に迷っていたところである。だから、こうしてここに住むことができているのは幸運としかいいようがない。
 幸いにも佐吉は早くからここに住み始め、村の者とも付き合いがあるから、除け者にはされていなかった。何か悩み事があれば村の者からこちらにやって来るぐらいだ。それにこの村では旅人を泊める唯一の場所として佐吉の屋敷が使われていたから、旅人はこの村にくると皆ここに来るのである。三平も一十九も、この屋敷が泊まる場所だと案内されてやって来た者だった。そうして知り合った旅人を世話しながら、村人の畑を手伝ったりして生計を立てていた。それから、妖し事の蒐集をして。この世に蔓延る妖かし全てを書き記す、と佐吉は決めていた。自分が生来視える者だったからというのもあるが、それ以上に、天狐と野狐に出会ったことが大きかったと思う。
 二匹は佐吉の運命を変えた存在である。だから、そんな二匹のためにも、佐吉は集めねばならないのだ。
 新しく紙を広げ、佐吉は肘をついた掌に頬をのせた。
「さて、事の顛末は……」
 文机の前で墨を筆に含ませた佐吉が言う。
 後ろに控えていた天狐と野狐が口を開いた。